もう二十年近く前のことになる。
正確な年齢は分からないが、たぶん五歳くらいだった。
最初に思い出すのは、冷たい山の空気と、湿った土の匂いだ。
あの匂いは今でも、ときどき鼻の奥に蘇る。
私が育った村は、地図に載らないほど山奥にあった。
電気も電話もなく、舗装された道もない。雨が降れば道は泥になり、晴れれば砂埃が舞う。昼でも薄暗く、夜になると闇が家の縁まで這い寄ってくる。時間だけが取り残されたような場所だった。
村にいたのは六人だけ。
私と私の祖父。
双子のヒサシとトモユキ、その祖父母。
ヒサシは口がきけず、トモユキは生まれつき足が弱かった。
だからいつもヒサシがトモユキを背負い、言葉はトモユキが代わりに発していた。二人は一人の体のように見えた。
学校はなかった。街に出たこともない。
それでも字や数は双子の祖母が教えてくれた。今思えば不思議だが、あの頃の私は不満を感じたことがなかった。外を知らなかったからだ。
その日、私たちは村の外れにある大きな鳥居のそばで遊んでいた。
するとヒサたちの祖父が、珍しく満面の笑みで駆けてきた。
「今日はめでたいことがあったけん」
ご馳走という言葉に胸が躍った。
だが家に戻ると、玄関に立っていた私の祖父の顔は、笑顔とは程遠かった。鉛色に沈んだその表情を、当時の私は深く考えなかった。
座敷に通され、出されたのは黄金色の透き通った液体だった。
酸っぱい匂いが鼻を刺す。
「神様からいただいた酒じゃ。残さず飲みなさい」
ヒサたちの祖父の声には、逆らえない圧があった。
ヒサシは迷いながらも一気に飲み、トモユキにも口をつけさせた。
私は手が伸びなかった。
その背後から、私の祖父が言った。
「サトコ、お前の分は薄くしてある。めんだなことにはならん」
私は祖父を信じた。
喉へ流し込んだ瞬間、世界が裏返った。
畳が波打ち、視界が暗く沈む。
双子はもう倒れていた。私も床に崩れた。
次に目を覚ましたとき、足元が揺れていた。
暗い天井。車の中だった。
耳の奥で大人たちの声が響く。
「わーがえなもん、死んだが良かったんじゃ」
「やくたいもねこと、いつまでも」
「七年ぶりのいんびだけん、諦め!」
意味は分からなかった。
ただ、自分が“数えられている”ことだけは、子供ながらに理解した。
車が止まり、冷たい空気が流れ込む。
私は狸寝入りをした。
抱きかかえられたとき、私の祖父の胸が震えているのが分かった。
「わりしこだった……わりしこだった」
その声だけが、今も耳に残っている。
連れて行かれたのは、納屋のような建物だった。
床に寝かされると、ヒサたちの祖父が低い声で何かを唱え始めた。土の底から響くような声だった。
やがて懐から錆びた小刀が現れた。
刃先がこちらを向いた瞬間、私の祖父が飛びかかった。
「逃げえ!ヒサもトモももうあかん!お前だけでも逃げえ!」
叫びに押され、私は走った。
背後でヒサたちの祖母が叫ぶ。
「お前は逃げたらあかんのんじゃ!」
その声が、今も夢に出る。
外に出ると、海の匂いがした。
裸足の足裏が裂け、血が出ても止まらなかった。
走らなければ終わると、本能が告げていた。
やがてサイレンが聞こえ、私は倒れ込んだ。
警察に保護されたあと、納屋に戻ったが、そこには誰もいなかった。
双子も、大人たちも、すべて消えていた。
行方不明届は出ていなかった。
私は施設に預けられ、七歳で養子になった。
それから七年ごとに、必ず同じ夢を見る。
薄められた酒の匂い。
数を確かめる声。
そして、背中に感じる、誰かの手。
最近、役所で自分の戸籍を見た。
備考欄に、見覚えのない名前が二つ、薄く消された跡があった。
ヒサシ。
トモユキ。
あの村はもう存在しない。
それでも私は、まだ勘定に入れられている気がしてならない。
七年は、もうすぐだ。
(了)
[出典:2007/03/21(水) 00:43:46 ID:D+9dz9fg0]