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中編 r+ 集落・田舎の怖い話

いんびの夜 r+7,470

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もう十数年以上も前のことになる。正確な年齢は定かじゃないが、五歳くらいだったと思う。

記憶の端は、あの山の冷たい空気と、深く染み込んだ土の匂いから始まる。

暮らしていた村は、地図にも載らないほど奥まった山中にあった。
電気も電話もない。舗装された道もなく、雨が降ればぬかるみ、晴れれば砂埃が立つだけの細い道。
昼間でも光が弱く、夜は山の闇がすぐそばまで押し寄せてくる。時代を切り取って置き忘れたような場所だった。

その村にいたのは、私とおじいちゃん。そして双子のヒサシとトモユキ、その祖父母の六人だけだった。
ヒサは口がきけず、トモは生まれつき体が弱く、ほとんど歩けない。
それでもふたりは一つの体のように生きていて、どこへ行くにもヒサがトモを背負い、言葉はトモが代わりに発していた。

学校というものはなかった。街に出たこともない。けれど勉強は双子の祖母が根気強く教えてくれたから、字も数も覚えた。
退屈な日々だったはずなのに、あのころは満ち足りていた。村の外を知らないというのは、ある意味で幸せなことなのだろう。

ある日、村の大鳥居のそばで三人で遊んでいたときのこと。
ヒサたちの祖父が、滅多に見せない笑顔で駆けてくるのが見えた。
何かいいことがあったに違いない、と私たちは囁き合った。もしかして今日はご馳走だろうか、と胸を躍らせた。

予感は当たった。
祖父は「今日はめでたいことがあったけんご馳走じゃ」と言い、私たちを家へ連れて行った。
けれど玄関には、腕を組んだ私の祖父が立っていた。
その顔は笑顔どころか、鉛色のように沈んでいる。私は心の中で「具合でも悪いのかな」と思っただけだった。

座敷に通され、出されたのは黄金色に透き通った液体だった。
酸っぱい匂いが鼻を刺す。
何だろうと首をかしげる私たちに、ヒサたちの祖父が言った。
「神様からいただいたありがたいお酒じゃ。残さず飲みなさい」
その声には妙な圧があった。

ヒサは迷った末に一気に飲み、トモにも口をつけさせた。
私はどうしても手が伸びなかった。
その背後から、私の祖父の声がした。
「サトコ、お前の分は薄くしてあるけん、めんだな事にはならん。飲め」
大好きなおじいちゃんの言葉に逆らう気持ちはなかった。
信じて、一気に喉へ流し込んだ。

瞬間、世界がぐるりと回転した。
畳が波打つように揺れ、双子の姿が遠のいていく。ふたりはもう倒れていた。
私も視界の端が真っ暗に沈み、体が崩れた。

次に目を覚ましたとき、足元が揺れていた。
暗い天井。揺れの正体は車だった。
ぼんやりした意識の奥で、声が聞こえた。
「わーがえなもん、死んだが良かったんじゃ」……私の祖父の怒鳴り声だ。
「やくたいもねこと、いつまでも」……ヒサたちの祖母の冷たい声。
「七年ぶりの『いんび』だけん諦め!」……ヒサたちの祖父の怒声。

意味は分からない。ただ、「何かをされる」という確信だけが体を凍らせた。

どれほど走ったのか、車は止まり、外の冷たい空気が入り込んだ。
降ろされるとき、私は狸寝入りをした。
抱きかかえる祖父の胸が震えているのが分かった。
「わりしこだった、わりしこだった」……嗚咽混じりの声が、耳の奥にこびりつく。

連れてこられたのは、暗い納屋のような場所だった。
薄暗い隅に寝かされると、ヒサたちの祖父が低くお経のような声を上げ始めた。
その声は、まるで土の底から響くようで、背骨の奥まで冷えが降りてきた。
喉が勝手に震え、全身に汗が吹き出す。おじいちゃん、助けて……心の中で何度も叫んだ。

お経が止むと、懐から錆びた小刀が現れた。刃先がこちらに向かう。
声も出せないまま、心臓が破裂しそうになった。
その瞬間、私の祖父が飛びかかる。
「逃げえ!ヒサもトモももうあかん!お前だけでも逃げえ!」
取っ組み合いながらの叫びに突き動かされ、足が勝手に動いた。

出口に向かって走る。
背後から、ヒサたちの祖母が叫ぶ。「あかん!お前は逃げたらあかんのんじゃ!」
耳の奥でその声が何度も反響する。
おじいちゃんも双子も置いていく罪悪感で胸が潰れそうだったが、恐怖が勝った。

外に出ると、海の匂いがした。
裸足の足裏が砂利で裂け、血がにじむ。
それでも走る。走らなければ終わる。
どれくらい経ったのか、パトカーのサイレンが耳に飛び込んできた。

車から降りた警官の顔を見た瞬間、体中の力が抜けた。
うまく説明できない。自分でも信じられないほど、話は支離滅裂だったと思う。
けれど警官は真剣に耳を傾け、パトカーに乗せてくれた。

元の場所へ戻ると、納屋はしんと静まり返っていた。
人の気配はなく、双子も、祖父たちも、どこにもいなかった。
二階も探したが、空っぽだった。

その後、警察署で何度も質問された。
名前はサトコ。
それ以外は何も答えられなかった。
両親のことも、村の名前も知らなかった。……いや、本当に知らなかったのだ。

行方不明届にも該当せず、私は施設に預けられた。
七歳のとき、今の家に養子として迎えられた。
穏やかな生活の中でも、あの日のことは忘れられない。
夢の中で何度も、あの暗い納屋と錆びた刃を見てしまう。

ヒサとトモは、あのあとどうなったのか。
「いんび」とは何だったのか。
あのとき祖父が私を逃がしたのは、償いだったのか……
答えは、まだどこにもない。

(了)

[出典:2007/03/21(水) 00:43:46 ID:D+9dz9fg0]

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