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中編 r+ 洒落にならない怖い話

後ろ姿だけが映る rw+5,406-0524

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あれは、真夏の夜のことだった。

仕事中、机の上に伏せていた携帯が震えた。画面には「村上」と出ていた。

声を聞くのは一年ぶりだった。大学を出てからは年に何度か会う程度になり、そのうち連絡も途切れていた。別の友人から、村上が精神を病んで実家に戻ったと聞いていたので、こちらから電話をかけることもなくなっていた。

出ると、しばらく返事がなかった。

「もしもし」

もう一度呼びかけると、受話口の向こうで乾いた笑い声がした。

「……ちょっと相談があってさ」

それだけだった。

声は村上のものに聞こえた。ただ、妙に遠かった。外にいるのか、建物の中にいるのかもわからない。風の音のようなものが混じっていたが、電話越しの雑音と言われればそれまでだった。

仕事が終わったら駅前で会うことにした。

その日は、なぜか業務が長引いた。普段なら十分で片づく確認が何度も差し戻され、上司に呼び止められ、時計を見るたびに約束の時間から遠ざかっていった。退社した時には、もう三十分以上過ぎていた。

慌てて村上に電話をかけた。

呼び出し音は鳴る。だが、出ない。

駅前の広場まで走ったが、村上の姿はなかった。改札前、交番の横、喫煙所、自販機の並ぶ壁際まで見た。どこにもいない。

腹が空いていたので、近くのラーメン屋に入った。注文を済ませ、水を一口飲んだところで携帯が鳴った。画面にはまた「村上」と出ていた。

「悪い。仕事が長引いた。今、駅前にいる」

そう言うと、受話口の向こうで少し間があった。

「いや……待ってたんだけど」

声が湿っていた。

「駅前だろ。改札の前」

「いたよ」

「いなかったぞ」

「いたよ。ずっと」

その言い方に腹が立った。だが、怒鳴るほどのことでもない。待ち合わせ場所を勘違いしたのかと思い、何度か確認したが、場所は合っている。時間も合っている。なのに会えていない。

村上は少し黙ってから、「じゃ、家の方に行くから」と言った。

「今から? 無理だ。終電に間に合わない」

「少しでいいんだ」

「明日の夜にしよう。ちゃんと行くから」

また沈黙があった。

その沈黙の奥で、ぽちゃん、と水が落ちるような音がした気がした。

「……わかった」

電話はそこで切れた。

その夜、二時過ぎに固定電話が鳴った。

携帯ではない。部屋の隅に置いた、ほとんど使っていない固定電話だった。実家から引っ越した時に回線だけ残していたが、知人でその番号を知っている者はほとんどいない。

眠りかけていたので、最初は夢の中の音だと思った。だが、鳴り止まない。しつこいほど鳴る。

起き上がって受話器を取った。

「もしもし」

返事はなかった。

「どちらさまですか」

ザー、ザー、と雨のような音が聞こえた。外は晴れていた。夏の夜の空気が窓の向こうで静かに沈んでいる。

その雑音の下に、誰かの声が混じっていた。女の声に聞こえた。近いのか遠いのかもわからない。喉の奥だけで何かを言っているような、息だけが言葉の形を取ろうとしているような声だった。

聞き取ろうとして、耳を受話器に押し当てた。

その瞬間、はっきりと水の音がした。

ぽちゃん。

受話器の中ではなく、部屋のどこかで鳴った。

思わず振り返ったが、何もない。台所も、廊下も、玄関も暗いままだった。

「村上か?」

そう言った途端、電話は切れた。

受話器を戻しても、しばらく耳の奥に雨音が残っていた。いたずらだと思おうとした。間違い電話だとも思おうとした。だが、眠れない。布団に戻って目を閉じても、あの水の音だけが部屋のどこかに残っている気がした。

三十分ほど経った頃だと思う。

廊下の奥から、何かを引きずる音が聞こえた。

ずる。

間を置いて、また。

ずる。

重いものを引いているというより、濡れた布が床に張りついて、それを無理に動かしているような音だった。その合間に、ぽちゃん、ぽちゃん、と水が落ちる。

アパートの二階だった。隣の部屋の音なら、もっと壁越しに響く。だが、それは明らかに自分の部屋の中、玄関から廊下を通ってこちらへ近づいてくる音だった。

布団の中で息を止めた。

音は部屋の前で止まった。

そこからが長かった。

何かがいる、と思った。ドアの向こうではなく、部屋の前ではなく、もう部屋の中にいるのではないかと思った。けれど目を開けることができなかった。

やがて、耳のすぐそばで、ぽちゃん、と水が落ちた。

反射的に起き上がった。枕元のスタンドには手が届かなかった。代わりに、台所の蛍光灯の紐を引いた。部屋が白くなる。安い蛍光灯の光が一瞬だけちらつき、壁と床を青白く照らした。

何もいない。

そう思った直後、視界の端に鏡が入った。

姿見の前に、女が立っていた。

正確には、鏡の中にだけ映っていた。

膝丈の赤いスカート。白い足。けれど、すねから下がない。床に立っているはずなのに、足首も爪先もなく、白い脚が途中で途切れている。

上半身は暗くてよく見えなかった。長い髪が肩と背中に濡れたように張りついていた。両腕はだらりと下がっている。少し足を開いた姿勢で、鏡の中の女は背中を向けていた。

こちらを見ていない。

それなのに、見られていると思った。

その矛盾が一番怖かった。

顔は見えない。目もない。口もない。ただ背中だけが映っている。だが、その背中がこちらを意識しているとしか思えない。部屋の空気が急に重くなり、喉の奥が塞がった。

声を出そうとしても出なかった。立とうとしても体が動かない。女も動かない。鏡の前に立ったまま、こちらに背中を向けている。

その時、窓を軽く叩く音がした。

コン、コン。

二階の窓だった。

ありえない、と思った瞬間、外に人影が見えた。人影は窓の前から離れ、ベランダのない外壁を歩くように横へ動いた。いや、歩いたのではない。影だけが流れるように遠ざかった。

思わずそちらを見てしまった。

すぐに鏡へ視線を戻した。

女はいなかった。

体が動くようになり、腰が抜けた。朝まで明かりを消せなかった。布団にも戻れなかった。玄関の方を見ることも、鏡を見ることもできず、台所の床に座ったまま夜が明けるのを待った。

翌日、仕事は休んだ。

昼過ぎになって、村上との約束を思い出した。昨日の電話が気になり、携帯からかけた。何度か呼び出したあと、知らない男が出た。

村上の父親だった。

名乗ると、電話の向こうで息を呑む気配がした。

「村上は……今朝、亡くなりました」

言葉が出なかった。

父親の話では、村上は深夜に一度外へ出たらしい。明け方近くに戻り、そのあと自室で倒れているのを家族が見つけたという。詳しいことは濁された。ただ、電話越しでも、家の中がひどくざわついているのがわかった。

私は、昨日の夜に村上から相談の電話があったことを伝えた。

父親はしばらく黙っていた。

「昨日の夜は、本人はほとんど話せる状態ではありませんでした」

それだけ言った。

行くべきではなかったのだと思う。

それでも行った。村上の実家は電車とバスを乗り継いだ住宅地にあった。玄関先には近所の人らしい姿がいくつかあり、家の中は線香の匂いと、消しきれていない生臭さのようなものが混じっていた。

村上の母親は、私の顔を見るなり泣き出した。私は何を言えばいいかわからず、ただ頭を下げた。

村上はずいぶん前から、何かに怯えていたらしい。家族にはほとんど話さなかった。ただ夜になると部屋の電気をすべてつけ、鏡を布で覆い、テレビの画面にもタオルをかけていたという。

「何か映るのか」と父親が聞いたことがある。

村上は「映ってるんじゃない」と答えたそうだ。

「向こうが見てる」

それ以上は話さなかった。

帰る前、私はトイレを借りた。廊下を戻る途中、ふすまが少し開いた部屋があった。そこが村上の部屋だとすぐわかった。見てはいけないと思ったが、足が止まった。

畳に黒ずんだ染みが残っていた。布団が寄せられ、壁際の棚が倒れ、部屋は荒れていた。テレビが一台、畳の上に置かれていた。電源は入っていない。黒い画面だけが、部屋の中をぼんやり映していた。

そこに、赤いスカートの後ろ姿が映っていた。

声が出なかった。

テレビの前には何もいない。私の立っている位置とも合わない。画面の中の女は、部屋の奥を向いて立っているように見えた。こちらではない。テレビの向こう側にある何かを覗き込むように、じっと動かずに背中を向けている。

その背中の向こうに、村上の部屋ではない暗がりがあった。

逃げるように応接間へ戻った。村上の家族が不審そうに私を見たが、何も言えなかった。

葬式の日、古い友人たちで集まった。

誰も大きな声を出さなかった。酒は進んでいるのに、場は妙に冷めていた。村上の話をしようとしても、すぐに黙ってしまう。笑い話にできるほど昔ではなく、悲しみだけで済ませられるほど単純でもなかった。

その中で、宮沢がぽつりと言った。

「村上、前から変なこと言ってたんだよ」

宮沢は村上と一番親しかった。実家に戻ってからも何度か会っていたらしい。

「女がいるって言ってた。自分の後ろじゃなくて、反射するものの中にいるって。鏡とか、窓とか、消したテレビとか。見えるのはいつも後ろ姿で、こっちを向かないって」

私は黙って聞いていた。

「でも、村上は言ってた。あれは俺を見てるんじゃないって」

グラスを持つ宮沢の手が少し震えていた。

「俺の後ろを見てるんだって」

その言葉を聞いた時、背中が冷えた。

私は、自分が見たものを話した。鏡の前にいた女。村上の部屋のテレビに映っていた赤いスカート。窓を叩いた音。水の音。

宮沢は顔色を変えた。

「俺も見た。ファミレスで」

村上と夜通し話していた時、入口のガラスに女が映っていたという。店内にいるはずなのに、振り返っても誰もいない。ガラスには、赤いスカートの女の後ろ姿だけがずっと映っていた。村上はその間、一度も入口を見なかった。

「あいつ、見たらだめだって言ってた。顔じゃなくて、背中を見るなって」

「背中?」

「背中が向いてる場所に、こっちも入るからって」

誰も意味を聞き返さなかった。

その時、宮沢が壁を見た。

「おい」

居酒屋の壁には、天井の照明で私たちの影がぼんやり映っていた。肩、頭、腕。椅子の背。テーブルの形。

その中に一つだけ、輪郭のはっきりした影があった。

長い髪。膝丈のスカート。肩幅ほどに開いた脚。

女の影だった。

私たちの誰の影でもない。だが、壁の上では、確かに私たちと同じ席に立っていた。こちらを向いていない。やはり背中を向けている。

その影は、壁の奥を覗き込んでいた。

誰かが椅子を倒した。別の誰かが店員を呼んだ。全員が席を立った瞬間、影は消えた。

それ以来、私は反射するものを長く見られない。

鏡はできるだけ置かない。テレビは使わない時、布をかける。夜の窓にはカーテンを閉める。携帯の黒い画面も、なるべくすぐ点けるようにしている。

ただ、避けようがない時がある。

エレベーターの扉。電車の窓。店のガラス。夜のパソコン画面。

そこに自分の顔が映る前に、私は必ず背後を確認する癖がついた。誰もいないことを確かめる。それから画面を見る。

それでも時々、考える。

あの女は、私たちの背後にいたのではないのかもしれない。

私たちが見たものは、いつも後ろ姿だった。鏡でも、テレビでも、壁の影でも、女は一度もこちらを向かなかった。

なら、あれは何を見ていたのか。

女が背中を向けていた先に、何があったのか。

一度だけ、携帯の画面を消したまま机に置いていたことがある。真っ黒な画面に、部屋の天井と私の手元がぼんやり映っていた。

その奥に、赤い色が見えた。

反射だと思った。そう思おうとした。

画面の中で、赤いスカートの女は、私に背中を向けていた。

だがその時、私はようやく気づいた。

女が見ていた先は、私の部屋ではなかった。

画面を覗き込んでいる、こちら側だった。

(了)

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