中学時代の同級生、佐伯(仮名)から聞いた話。
二十年以上も前、まだ彼が小学生だった頃、家族でよく観ていたという古いNHKのドラマがあったそうだ。「あの角の向こう」というタイトルで、当時はそれほど話題にもならなかったが、彼には妙に記憶に残っているという。
主演は西村晃。気弱で冴えないサラリーマンの役を演じていた。親友役にはハナ肇。家庭を持つ者には身につまされるような筋書きだったらしい。
物語の中で主人公は、長年こつこつ貯めた金でマイホームを買うことを夢見ていた。ようやく夢が叶ったという話が舞い込んだが、それを持ちかけたのは、いかにも胡散臭い不動産業者。紹介されたのは、ただの空き地だった。
主人公はそれが詐欺だと気づいたが、家族の前で本当のことが言えなかった。なけなしの資金を騙し取られたとは言えず、家族はすっかり「新しい家」ができるものだと信じていた。
話はどんどん進んでいった。知人たちから新築祝いが届き、荷物の搬入スケジュールまで決められてしまう。そのたびに、親友が彼をなだめ、苦笑いしながら嘘を取り繕う方便を手伝ってやった。
「本当のことを言えよ」
親友は、決まってそう言ったという。だが、当の本人は、結局一度も打ち明けることはできなかった。
家具の一部は、先に送られていた。しかし当然ながら「家」はない。野原にタンスや冷蔵庫がぽつんと置かれ、まるで誰かの悪ふざけのようだった。
そして、とうとう転居の日。住んでいた家からも立ち退かなければならない。夜の帳が下りるなか、小さなリヤカーに残りの荷物を積んで、家族四人は『新居』へ向かって歩いた。
道すがら、彼は親友の家に寄った。
「……どうにかならないか。明日には、ちゃんと話すから」
縋るような目で頼んだが、親友は冷たく言い放った。
「もう勝手にしろ」
その声は低く、乾いていて、どこかで決別の響きを孕んでいたという。
そして、彼らは再び夜の道へ戻った。街灯もない路地を、ぎこちなくリヤカーを引いて進む。風の音だけが耳を撫でていく。
「ねえ、もうちょっとで新しいおうちに着くんだよねえ?」
我が子の声に、父親は一瞬、立ち止まった。
「……そうだよ。そこの角を曲がったところだ」
角に差し掛かると、また言った。
「いや、間違ったかな。もう一つ向こうの角……あの角の向こう……」
そこでエンディングテーマが流れて、画面は暗転したという。
それだけの話だ。ただ、それだけのはずだったのに――佐伯は今でも時々、そのラストシーンを夢に見るという。
ただ歩くだけの場面なのに、妙に印象に残っているのだと。
大人になった佐伯は、ふと思い出してネットで調べてみた。「あの角の向こう」についての情報は少なく、公式な記録も乏しい。再放送もなく、映像ソフト化もされていない。
にもかかわらず、一部の掲示板ではこのドラマについて語る者たちがいた。どれも「あのラストが怖かった」「今でも夢に出る」「家が無いのに家族で移動するシーンが怖い」と、似たようなことを書いている。
その中に、妙な噂を見つけた。
どうやら、あのドラマのロケ地として使われた場所は、実在する心霊スポットだったらしい。撮影当時から地元の人間には「近づいてはならない場所」として知られていたという。
草むらの向こうに何かがいる。夜になると、角を曲がった先から足音がする。古くから、そうした話があったそうだ。
撮影中、複数のスタッフが原因不明の高熱を出し、演者の一人は一時的に記憶障害を訴えたという噂もあった。
ただの偶然だろう、佐伯も最初はそう思った。
だが、とどめとなったのは、古い新聞記事のスクラップだった。
「ドラマ最終回の翌日、ロケ地近くで一家心中」
記事には簡素な記述しかなかった。
新築の夢が叶わず、住まいを失い、絶望して心中――まるで、ドラマの中の一家そのままのようだった。
誰かがそれを模倣したのか、あるいは偶然の一致か。いや、それ以上の何かが、あの角の向こうにはあったのか。
フィクションと現実が交錯する点が、もしどこかにあるとすれば、それはあの暗い角、夜の街角にぽっかりと空いた空白ではないか。
あの角の向こうに、家などなかった。
だが、それでも人は進んでいく。信じて、あるいは信じているふりをして、リヤカーを引きながら、子どもの手を引きながら――
暗い空の下、どこへとも知れず。
角を曲がって、その先へと。