これは、ふと思い出した父の話だ。
父――以下では「兄」と呼ぶ――が子どもの頃のこと。弟と一緒に近くの山へ薪用の木を拾いに行ったときの話だ。
その地域では、山深い環境にまつわる迷信が根強く、特に「猿」「犬」「猫」といった言葉は山へ入る前も中でも口にするな、と両親から厳しく言いつけられていたらしい。
兄はその言いつけをしっかり守っていたが、弟はそうではなかった。山に入ってしばらくすると、弟はふざけて「猿」を何度も口にし始めた。
兄がいさめても聞く耳を持たず、弟はなおも「猿」を連呼し続けたという。
そのときだった。
突然、山の空気が変わり、辺りが暗くなり始めた。兄が驚いて空を見上げると、快晴だった空が嘘のように真っ黒な雲で覆われ、雲は彼らの頭上に集まり始めていた。
その場の雰囲気も妙にざわざわと落ち着かず、不吉さを感じた兄は、ついに弟を怒鳴りつけて黙らせた。拾い集めた木を放り出し、二人は慌てて家へと駆け戻った。
家に帰り着いた彼らは息を切らしていたが、家にいた父(私の祖父)は事情を聞く前に言い当てた。
「お前たち、山で余計なことを口にしただろう!」
兄が「なぜ分かったのか」と尋ねると、祖父はこう答えた。
「庭先から山を見ていたら、すごい勢いで雲が一箇所に集まり始め、しばらくして消えた」
その「一箇所」とは、兄と弟が薪を拾っていた場所だったのだ。
兄が改めてことの次第を説明すると、祖父はこう言った。
「もしお前が気づいていなかったら、家に戻って来られなかったかもしれないぞ」
なお、父(兄)の話によれば、弟と同じように禁じられた言葉をふざけて言い続けた人が大けがを負ったり、何かに取り憑かれたようにおかしくなって戻ってきたケースもあるらしい。
それを聞いた私は、山へ入るときは今でも細心の注意を払うようにしている。
追伸として補足しておくが、理由について明確な説明は聞いたことがない。ただ、祖父や父の話では「四本足の動物全般」を山では口にしない方がよいとのことだ。
猟師が獲物の名前を呼ぶのは仕方ないが、それでもむやみに言葉を連呼することは今でも避けられているらしい。山の神や山そのものの「気」を乱すと考えられているのだろう。
ちなみに、これは50年ほど前の出来事だ。大けがをした例として父が挙げた話では、禁じられた言葉――たとえば「犬」や「猿」――を繰り返し口にした直後、片側が崖の山道で足を踏み外した人がいたそうだ。
その人は何十メートルも滑落し、全身のほとんどの骨を折る重傷を負った。助けられたものの、命を取り留めるのがやっとだったという。
こうした話を聞いて育った私は、それが偶然であれ何であれ、試してみる気にはなれない。
だから山に入るとき、自然と無口になってしまうのだ。
509 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/11/15 21:55
(了)