これは、ふと思い出した父の話だ。
父がまだ子どもの頃、弟と二人で近くの山へ薪拾いに入ったという。
その山では、入る前に「余計なことは言うな」とだけ、祖父から繰り返し言われていた。何が余計なのか、理由は聞かされていない。
山に入ってしばらくして、弟がふざけた調子で、ある言葉を何度も口にした。
兄である父は嫌な感じがしてやめろと言ったが、弟は面白がって繰り返した。
その直後だったそうだ。
風が止まり、音が消えた。
さっきまで明るかったはずの山が、急に陰ったように見えた。
父が空を見上げると、雲が一箇所に集まっていた。
動いているというより、引き寄せられているようだったという。
理由はわからない。ただ、そこに居続けてはいけないと、はっきり感じた。
父は弟を無理やり黙らせ、拾った薪をその場に置いたまま、二人で山を駆け下りた。
家に戻ると、祖父が庭に立っていた。
何も聞かれないまま、祖父は父の顔を見て言った。
「山で、口が軽かったな」
父が驚いていると、祖父は山の方を指さした。
さっきまで、あの辺りだけ雲が溜まっていた、と。
そして、もう消えた、とだけ言った。
そのあと祖父は、多くを語らなかった。
ただ一言だけ、低い声で付け加えた。
「気づいて戻れたなら、それでいい」
父はそれ以上、何も聞かなかったという。
それから何年も経って、父は山に入ると自然と無口になった。
理由を説明されたことは一度もない。
ただ、あのとき感じた空気の重さと、雲の集まり方だけは、今でもはっきり覚えているらしい。
山は何も言わない。
だが、こちらの言葉を聞いていないとも、言い切れない。
(了)
[出典:509 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/11/15 21:55]