工場での仕事は好きだった。
いや、正確には「慣れていた」と言った方がいいかもしれない。
毎日同じ時間に目覚ましを止め、制服を着て、無言のバスに揺られ、スチームの香る作業場へ。単調な日々だったが、それが何よりの安心だった。
あの日までは。
七月七日の夜、清掃当番は私の持ち回りではなかった。けれどその夜、なぜか胸騒ぎがして眠れず、こっそりタイムカードを押さずに現場に顔を出した。
照明が一部落ちた工場内は、昼間と打って変わって空気が重く、いつもの機械音も鳴っていない。ただ、蒸気のようなものがどこからか漂っていて、それがやけに生臭く感じた。
手拭きを握りしめた手が汗ばんだ。
ベルトコンベアの奥、あの大型ミキサーの向こうに、何かが転がっていた。
……それが“人”だったと気づくまで、数秒の時間が必要だった。
胴体が、ない。
それより何より、私の足を止めたのは、その“人”の顔が、笑っていたことだった。
それが、二十年パンをこねてきた古株のSさんだったと気づいたのは、通報の後、冷静になって名札を拾い上げてからだった。
翌日、社内メールで「機械の誤動作による死亡事故」があったと知らされた。
現場は清掃中だったらしい。
通常使用されていない予備機が、なぜか稼働状態にあった。スイッチが入っていたという。安全装置が働かなかった原因は不明のままだった。
社内ではその機械は“封印”されると通達されたが、それ以上は追及されず、製造ラインは二日後には再稼働した。
だが私には、知っていた。
スイッチを入れたのが誰か、わかっていた。
その週の金曜、ロッカールームで作業着を畳んでいると、背後から声をかけられた。
「……あの人、見た? 中身、出ちゃってたってよ」
振り向かずともわかった。
Nという、三年目の新人。
無口で、目を合わせない。無表情。けれど、妙に物を知っている。不自然なほどに事故現場の詳細を語った。
「アレ、ミキサーに入ったっていうより、入れられた感じだったってさ」
「血、排水溝まで流れたんだって」
「ボタンさえ押せば、どうなるか見てみたかったんじゃないかな」
最後の一言に、私の背筋が凍った。
その言い方があまりにも自然すぎて、まるで日常の一部のように思えたから。
それ以来、彼女の周囲では不可解なことが続いた。
製造ラインが一時停止した原因不明のブレーカー落ち、焼成釜の誤作動、そしてミキサーの蓋が勝手に開いたという証言。
けれど記録映像には何も残っていなかった。彼女はいつも、「現場にはいなかった」と記録されていた。
だが私は見た。目撃してしまった。
彼女が、コンベアの裏で何かに話しかけているのを。
「またやっちゃおっか?」と、笑いながら。
それでも、誰にも何も言えなかった。
同僚に相談すると、苦笑交じりにこう返された。
「あの子? ちょっと変わってるけど……人権問題があるから、下手なこと言えないよ」
「逆に訴えられるよ、今どきは」
口をつぐむしかなかった。
その後、Sさんの死は“個人の不注意”として処理された。
本人の名誉のためか、家族の希望か、事件性については誰も触れなかった。
だが数日後、私は思わず吐きそうになった。
ベーグルが届いたのだ。通販で頼んでいたやつ。
事故からたった二日後。社が営業を再開したその日に、焼きたてとして届けられたベーグル。
……このベーグルに使われた粉は、あの機械で混ぜられたんじゃないのか。
ミキサーが“動いてしまった”その日のうちに、材料が投入され、混ざり合い、焼かれた可能性は?
いや、そもそも止めていなかったとしたら? あの事故は、本当に事故だったのか?
パンを見つめながら、私の脳裏に浮かんだのは、血と肉と、あの笑顔だった。
焼き上がった小麦の香ばしさが、血のにおいと混じる。
私はその場で、袋ごとゴミ箱に突っ込んだ。誰にも言わずに。
……その夜、夢を見た。
ベルトコンベアの上に、丸められた生地がいくつも並んでいる。
生地のひとつが、微かに動いた。
私の名を呼んだような気がした。
それは、Sさんの声だった。
翌朝、Nの姿がなかった。出勤してこなかった。
それから一週間、彼女は音信不通となった。
机の引き出しには、封の開いていないベーグルが一袋。メモ用紙に、油性ペンで大きくこう書かれていた。
「……ねえ、知ってた? 焼くと骨も消えるんだって」
今も、工場は営業している。
けれど、あの機械のスイッチは誰にも触れられないままだ。
封印されたはずなのに、夜になると稼働音がすると、うわさになっている。
私はもう、あのパンを食べることはできない。
……食べてはいけない、と思っている。
それが、私がベーグルを捨てた理由。
[出典:713 :可愛い奥様:2008/07/11(金) 10:59:13 ID:cYcGzD+z0]