その人物――仮にAと呼ぶが――が打ち明けたのは、晩秋の夜に祖父の空き家へ泊まった時のことだった。
Aによれば、家に入った瞬間から「匂いが層になってまとわりつく」のだという。
人の体温が抜けた後の家は冷え方に独特の癖があるらしく、畳に触れたときのひやりとした引力が妙に生々しかったと語っていた。
その感覚をAは「通行儀礼のようだった」と形容した。家が内部に迎え入れる前に、まず体温を徴収する、そんな仕草があったのだと。
照明は最小限で、六十ワットの白熱灯が台所で橙の輪を描き、廊下の足元灯だけがかろうじて空気の輪郭を示していた。
光よりも暗闇のほうが人の想像に味方する、とAはいつも言う。
その夜、家具の影が膨らんで見えたのは、目の錯覚ではなく空気が“濃くなった”せいだとさえ考えたらしい。
家の匂いについても、Aはしつこいほど細かい。
乾いた木材、埃の酸味、そして祖父が好んだ線香の残り香。
とりわけ線香の匂いは、記憶の蓋を勝手にこじ開けるようだったという。
匂いの刺激が脳の奥で過去と現在を短絡させ、亡き祖父の姿が、煙の粒の隙間から覗くように思えた――と。
Aはその時点ですでに、家の空気が「内部から影を立ち上げてくる感覚」に飲まれつつあった。
恐怖という言葉は使わなかったが、語りながら何度も喉仏が上下するのを私は見ている。
二階の祖父の部屋に上がったとき、空気が一段重く沈んだという。
湿度だけがそこに置き忘れられたようで、気温もひと回り下がった。
窓は閉じているのに、朽ちた草の匂いがどこからか入り込み、庭仕事をしていた祖父の記憶を勝手に呼び起こした。
「息が白くなった瞬間、この部屋に長くいるべきじゃないと悟った」
そうAは言った。
温度計には映らない種類の寒さを、皮膚ではなく“記憶”が感じ取るというのだ。
一階に戻り、水を流すと家全体が鳴った。
ジャアという水音が天井裏で響き、梁の隙間が共鳴する。
古い家は、長い時間をかけて空洞を育て、思わぬ場所に声の居場所を作るものだと、Aは妙に客観的に語っていた。
その夜、喉の乾きが止まらず何度も唾を飲み込んだという。
布団に入っても足の先だけが凍え、その冷えが皮膚ではなく神経に触れるようだったと。
Aが異変を自覚したのは、深夜のことだった。
体温が不自然に上がり、発熱のような熱が胸の奥から逆流してきた。
恐怖が飽和すると身体が熱を発して均衡を取る――そんな話を医学書か何かで読んだのだろう。
Aはその状態を「現実と夢の境界が溶ける最も危険な状態だった」と回想した。
そして、不意に耳元で音がしたという。
「ア……ア……」
湿った子音と母音が半ば融けた、小さな呼息。
目は覚めていた。
夢だと断じようとした理性よりも、その“湿度”のほうが現実感を帯びていたとAは言った。
二度目の音はさらに近かった。
枕元のすぐ脇、呼吸の温度が感じられてもおかしくない距離。
Aはその時、奇妙な冷静さで自分の鼓動の速さを数えていた。
恐怖が限界を越えると、人は観察者になるのだ。
三度目は、「音」ではなかった。
湿った指先が畳を引きずる摩擦――。
「ズ……ズ……」
Aはそこで初めて、二階で感じた朽ち草の匂いが蘇ったと言った。
その匂いは、記憶を体外から運び込むような“媒介”の役割を果たしていたらしい。
摩擦音は枕元から足元へと移動し、布団の裾が外側にわずかに引かれた。
祖父の仕業とは思いたくなかった、とAは笑った。
その笑みに、羞恥にも似た震えが混ざっていた。
Aはそこで一度話を止め、水を飲んだ。
Aが語ったところによれば、翌朝の光は、まるで夜の出来事を「冗談」として片づけようとしているように見えたという。
畳の目は乾き、空気の密度も平常に戻り、何事もなかったかのように家は沈黙していた。
ただ、Aはその沈黙こそが妙に響いたと話した。
太陽が差し込んでいるのに、家の奥だけは光を拒むような暗がりが残っていたらしい。
祖父の部屋の前に立つと、気温に差はないはずなのに、指の関節がわずかに引きつるほどの冷えを感じた。
「気のせいにできたのは、昼までだった」
Aはそう言って、少し肩を落とした。
二日目の夜も泊まるつもりはなかったが、急な仕事の都合で帰れなくなった。
薄暗くなり始めた頃、家の空気が前夜よりも“整っていく”のをAははっきり自覚したという。
整う、という言い方が妙に感じられたが、Aはその表現を変えなかった。
「家が、夜のための姿勢を取るっていうか……」
そう言って、背筋を丸めるようなしぐさをした。
台所の白熱灯は相変わらず橙色の円を落とし、廊下の足元灯が生温い光を放っていた。
匂いは前日よりも薄くなっているはずなのに、線香の気配だけは妙に濃密に感じられた。
Aはその夜、意図的に二階には上がらなかった。
上がった瞬間に“何か”が形を持つ気がして、理由もなく足を止めたらしい。
代わりに一階の居間で布団を敷き、前夜と同じ条件で過ごすことにした。
喉の乾きは初めからあった。
水を飲むたびに、天井裏の梁がわずかに共鳴して、家全体が深呼吸しているように思えた。
「二度目は、もっと早かった」
Aの声は少し掠れていた。
深夜、時計の針がどれほど進んでいたのかは覚えていないと言ったが、前夜の“熱”が再び身体に満ち始めた頃だったらしい。
体温が上昇し、布団の中の空気が息苦しいほど重くなる。
その状態に覚えがあったAは、すぐに「来る」と悟った。
耳の奥で、前夜と同じ湿った呼息がした。
「ア……ア……」
前夜よりもはっきりした声色だったとAは表現した。
ただし、それが人の声かどうかは判然としなかったらしい。
音ではなく“湿度の塊”が鼓膜に触れたような感触だった。
Aは布団の中でまぶたを閉じ、呼吸の回数を数えた。
観察者になりきろうとしていたのは、恐怖の逃げ道を塞がないためだったのかもしれない。
そして、前夜と同じ摩擦が布団の外側で始まった。
「ズ……ズ……」
湿った指が畳を引きずる音。
その移動は、枕元から足元へ向かっていたが、前夜よりもゆっくりで、迷いがあるように感じられたらしい。
Aは語りながら、何度も指先を組み替えていた。
おそらく、実際に“それ”が触れた場所を無意識に辿っていたのだろう。
「二度目のほうが……近かったんだ」
そう言って、しばらく沈黙した。
やがて摩擦音が布団の端に届き、そこで止まった。
Aは布団の内側で、自分の呼吸が布団の布地を微かに震わせているのを感じた。
その震えの向こう側に、別の呼吸があった。
前夜と違ったのは、Aが逃げなかったことだった。
「めくったんだよ、そっと」
Aはそのときの自分の手の震え方を再現するように、右手をゆっくりと上げて見せた。
布団の裾を指先でつまみ、ゆっくりと持ち上げた瞬間――
そこには何もいなかった。
人影はおろか、埃さえ舞い上がらなかった。
Aはその瞬間、安堵よりも“違和感”が強く胸を占めたと言った。
音も匂いも確かだった。体温の変化も説明できないほど明確だった。
それなのに、目に見える形がまったくない。
Aが布団を下ろそうとしたその時、布団の内側――自分の足が触れていた白い内布に、五つの泥の指跡が並んでいるのが目に入った。
親指から小指まで、指の腹の形がはっきりと浮かび上がっていた。
湿った土が、布地にじんわりと染み込んでいた。
「外側じゃない。内側なんだ。あれが一番おかしい」
Aはそこで声を落とした。
布団の内側に、外からの泥がつく理由がない。
誰かが触れた形跡として説明するには、内布の位置が不自然すぎた。
Aはそこで確信した。
あれは単なる現象ではなく、“痕跡”だったのだと。

Aは、布団の内側に残った泥の指跡を見た途端、胸の奥の温度が急に落ち込んだと言う。
しかし、その冷え方は恐怖とは違っていた。
体温が下がるというより、“理解が追いつかない領域に踏み込んだ時の静けさ”に近かったらしい。
指跡は五つ。
どれも均等に力が乗り、形が崩れていない。
布団の内側――つまりAの身体のすぐ傍で押された痕だ。
泥の湿りはまだ生きているようで、布地に吸い込まれる過程がゆっくり進んでいた。
Aはその痕跡を、しばらく何も言わず見つめていた。
指の腹、節の丸み、微細な皺……。
どれを取っても人間の手以外の説明がつかない。
だが、そこに“誰かがいた”気配はどこにもなかった。
畳も静かで、空気も乾いている。
摩擦音も呼息もすでに消えていた。
Aは布団を握る手をゆっくり離し、夜の空気を吸った。
線香の残り香がほんのわずかに漂っていた。
前夜より沈んだ香りで、湿度の裏側に古い木の匂いが混じっていた。
そこでAは、自分の中で一つの答えをまとめたらしい。
「祖父の存在が残ったのだ」と。
ただし、それは霊として“現れた”のではなく、家という容器の中で保管されていた記憶の一部が、二晩続けて外へ流れ出した――そういう理解だった。
翌朝、Aはその家を出た。
玄関を閉めるとき、木戸が軽く鳴ったが、それを最後の挨拶のように感じた。
後で振り返ると、指跡のことを誰かに説明しようとしても、どの語彙を使うべきかわからず、結局ほとんど誰にも話さなかった。
ただ一つだけ、確信していることがあるとAは言った。
「記憶は、人の脳だけに残るとは限らない」
その言い方は淡々としていたが、どこか遠くを見るようだった。
Aは、最後にこう締めた。
家という場所は、時間を分類したり整理したりしない。
生者の体温も、死者の痕跡も、日常の気配も、すべてを同じ床下に重ねて保管する。
だから、ときどき順番を間違えて何かを外に漏らす。
あの泥の指跡は、まさにその“漏れ”だったのだと。
そして――
家を出て数週間後、Aはふと思い立って押入れの奥にしまってあった祖父の作業手袋を取り出したという。
庭仕事に使っていた、指先の丸みがすり減った古い手袋だ。
指の長さも幅も、あの泥の跡と驚くほど一致していた。
ただ一つ違っていたのは、右手の人差し指だけが、泥の指跡よりわずかに短いことだった。
祖父は生前、右手の人差し指を少し曲げたまま使っていた。
関節が固まって、伸ばすと痛むのだ、と笑って話していたらしい。
布団の指跡では、その指がまっすぐ伸びていた。
Aはそこで言葉を切った。
理由の説明はしなかった。
ただ、その沈黙の形がすべてを物語っていた。
祖父がそこに“来た”のではなく、家に残った記憶が形を保とうとしたとき、祖父の癖を正確に再現できなかったのだろう。
記憶は完璧ではない。
しかし残ろうとする力だけは、本物に負けないほど強い。
Aは手袋を押入れに戻したあと、二度と祖父の家には泊まっていない。
ただ、あの泥の指跡を思い出すと、胸の奥がざわつく。
そのざわめきは、恐怖とも安堵ともつかない。
曖昧なまま形も定めず、まるで線香の煙のように浮かび上がっては薄れていくのだ。
(了)