平成二十年、大学生だったときの話。当時、僕は都内で一人暮らしをしていた。
麻雀が好きだったため、最寄り駅近くの雀荘でアルバイトをしていた。大学もこの最寄り駅から通学しており、学校帰りにそのまま雀荘に立ち寄れる立地条件には満足していた。
ただ、問題があった。それは最寄り駅やバイト先から自宅へ帰るルートのことだ。普通の道路を通ろうとすると、長い上り坂を、ゆるやかなカーブを描きながら進まなくてはならなかった。この道は自宅から遠ざかるような形状になっており、非常に遠回りになる。
そのため、僕は普段から駅と自宅の中間にある公園を突っ切って帰るルートを選んでいた。この公園は、駅側から行くとお寺の横にある細い道が入口になっている。道の両側には高さ2メートルほどのコンクリート塀が立ち、左手にはお寺、右手には墓地が並んでいる。細い道を100メートルほど進むと、公園が見えてくる。公園はイチョウや桜の木々に囲まれ、少し進むと砂場やブランコが設置された開けたスペースがある。
さらに進むと、木々が生い茂る道が続いている。その右手には、かつて看護師の独身寮として使用されていた建物がある。ただし、この建物の入口は公園とは反対側にあり、内部に入ることはできない。現在では使われておらず、窓には板が打ち付けられている。この建物のベランダは公園側に向いているが、敷地内にはボールよけの網が張られており、立ち入ることはできない。
その先には階段があり、それを上るといくつかの遊具が設置された広場に出る。広場の周囲はコンクリート塀と木々に囲まれており、さらに進むと道が分岐している。右に曲がると隣接する神社の境内へ(お寺とは別に神社がある)、まっすぐ進むと道路へ出る。この公園の出口のすぐ近くに自宅があったため、僕はこのルートを日常的に使っていた。
ここまでが前置きだ。本題はここから始まる。
ある夜のことだ。その日は大学のゼミが長引き、帰宅が遅くなってしまった。駅を降りた時点で、時刻はすでに23時を回っていた。平日だったため街は静まり返り、人影はほとんどなかった。僕はいつものように公園を抜けて帰ることにした。
お寺の横道に入り、細い通路を進むと墓地の影が見えた。ライトに照らされている部分もあれば、塀の影で完全に暗闇に包まれている部分もある。昼間に通ると何も感じない道だが、夜になるとその雰囲気は一変する。足音が塀に反響し、やけに大きく聞こえる。ふと背後に気配を感じたが、振り返っても誰もいない。
墓地を抜け、公園に入った。入り口近くの木々の間から月明かりが漏れ、地面に不規則な影を落としている。砂場やブランコのある広場にたどり着くと、さらに静寂が深まるのを感じた。周囲を見回しても、もちろん誰もいない。木々が風に揺れる音だけが響く。
その夜は普段よりも妙に肌寒かった。時折、木の葉がざわざわと揺れる音がするが、それ以外は無音。薄暗い道を進むと、例の廃寮が見えてきた。昼間に見るとただの古い建物だが、夜は異様な存在感を放っている。閉ざされた窓に打ち付けられた板が黒く染まり、まるで何かがこちらを見ているかのような錯覚を覚える。
建物の前を通り過ぎるとき、ふと視界の隅に動くものを感じた。反射的に視線を向けたが、何もない。ただの気のせいだと思い、再び歩き出した。けれど、どうしても背中に刺さるような視線の感覚が消えない。振り返ることなく、足を速めて階段を駆け上がった。
広場に出ると少しだけ安心した。周囲に人がいないことを確認し、さらに進んで公園の出口を目指す。木々の間から街灯の明かりが見えたとき、ようやくホッとしたのを覚えている。そのまま自宅にたどり着き、玄関を開けて部屋の明かりをつけると、ようやく緊張が解けた。
しかし、その夜から奇妙な出来事が始まったのだ。
翌日の夜、再びバイトの帰りに公園を通ることになった。前夜の出来事は単なる気のせいだと自分に言い聞かせ、少し緊張しながらも普段通りに帰ることにした。
お寺の横道を通り、墓地を抜け、公園に入る。昨夜と同じルートだが、この日は月が隠れており、より暗く感じた。建物の前を通るとき、またもや視線を感じた。昼間に何度も通っている場所のはずなのに、夜になるとまったく異なる印象を受ける。
その時だ。背後から足音が聞こえた。僕は息を飲んだ。誰もいないはずの場所から足音が聞こえる。振り返ろうと思ったが、身体が動かない。ただ、耳だけがその音を拾い続ける。足音は一歩一歩、僕に近づいてくるようだった。
意を決して振り返った。しかし、そこには何もいない。ただの静寂が広がるだけだった。僕は何かに見られている感覚を振り払うように、再び足を速めて歩き出した。
階段を駆け上がり、広場にたどり着く。その時、視界の隅に何かが動いた。いや、確実に見えた。白い影のようなものが、木々の間をスッと横切ったのだ。僕は立ち止まり、目を凝らしてその方向を見つめた。しかし、影はもうどこにもいなかった。
心臓が高鳴るのを感じながら、公園を抜け出し、自宅へ急いだ。その夜、部屋に戻った後も、不安感が消えなかった。誰もいないはずの場所で感じた視線と足音、そしてあの白い影。これらはすべて僕の思い込みなのだろうか。
数日後、さらに奇妙なことが起きた。
バイトの休みの日、僕は友人を呼んで自宅で飲むことにした。数人が集まり、楽しい時間を過ごしていたが、途中で話題は僕が毎日通っている公園の話になった。僕が最近の出来事を話すと、友人の一人が興味を示し、「その場所、もしかして噂のある公園じゃないか?」と言った。
噂の内容を尋ねると、その公園ではかつて変死事件があったらしいのだ。その詳細は不明だが、公園に隣接する廃寮が事件現場だとされている。さらに、その場所では夜になると人影や足音が聞こえるという目撃談が後を絶たないという。
友人の話を聞きながら、僕は背筋が凍るのを感じた。確かに自分が体験したことは、友人が語る噂と一致している部分が多い。しかし、そんな話を真に受けるほど僕は純粋ではない。単なる都市伝説の類だと笑い飛ばした。
けれど、その日の夜、またもや公園を通らざるを得ない状況になった。そして、そこで再び恐怖が訪れることになる。
その夜もいつものように駅から公園を目指した。ただ、友人たちから聞いた噂話が頭に残っており、少しだけ緊張していた。お寺の横道を抜け、墓地沿いの細道を進むとき、背後からふと風が吹き抜けた。寒気を感じ、何気なく振り返ったが、誰もいない。ただの風だと思い直し、再び足を進めた。
公園の入り口に差し掛かると、普段よりも暗さが増していることに気が付いた。まるで木々が夜の闇を吸い込むかのように周囲が不気味な静けさに包まれている。砂場やブランコのある広場を通り過ぎ、廃寮の建物が見えてきた。
その瞬間、僕は思わず立ち止まった。廃寮の窓に、何かが映っているのが見えたのだ。それは人影のようだったが、瞬きする間に消えた。見間違いかもしれないと思い直し、気にしないようにして歩き出した。しかし、その一歩一歩がやけに重たく感じる。
廃寮の前を通り過ぎようとしたとき、耳に「カツン…カツン…」という音が届いた。それは、まるで硬い靴底で地面を踏むような音だった。だが、振り返っても誰もいない。音は徐々に近づいてくるように感じられる。僕はたまらず駆け出し、階段を一気に駆け上がった。
広場に出たところで足を止め、息を整えようとしたが、そこで再びあの音が聞こえた。振り返ると、広場の端に白い影が立っている。それはじっとこちらを見つめているようだった。あまりにも異様な光景に、僕は恐怖で身体が固まり、動けなくなった。
次の瞬間、その影がスーッとこちらに向かって動き出した。僕は恐怖心に駆られて広場を飛び出し、公園の出口へと全速力で走った。出口から道路に出て振り返ると、もうそこには何もいなかった。ただ、暗闇だけが静かに広がっていた。
その夜、自宅に戻った僕はしばらく眠ることができなかった。果たしてあれは何だったのだろうか。錯覚か、それとも噂にある幽霊だったのか。答えはわからない。ただひとつ確かなことは、その日以来、僕は二度とあの公園を通ることはなくなった。
それから数週間後のある日、僕は偶然、あの廃寮について詳しい情報を知ることになった。大学の先輩がその地域に詳しく、興味本位で話を聞いてみたところ、驚くべき事実を教えてくれた。
先輩によると、あの建物は昭和中期に看護師の寮として使われていたが、ある日、大きな事件が起きたという。その事件の詳細は地元でも語られることが少なく、曖昧な噂だけが残っている。だが、その寮では一人の看護師が首を吊って亡くなり、その後も夜になると奇妙な現象が続いたらしい。誰もいないはずの建物から足音が聞こえたり、白い服の女性が窓辺に立っていたりするという目撃情報が多く寄せられていた。
そのため、建物は廃寮となり、窓に板が打ち付けられたという。さらに、その看護師の死には裏があるという話もある。彼女はただの自殺ではなく、ある人物からのいじめや精神的な追い詰めが原因だったのではないかという説もある。
その話を聞きながら、僕は背筋に寒気を覚えた。あの夜、廃寮の窓に見えた影、背後から感じた足音、そして広場で見た白い影。これらは偶然ではなく、この噂と繋がっているのかもしれない。だが、真相を確かめる勇気はなかったし、もうあの場所に近づく気もなかった。
それ以降、僕はその公園の近くを通ることすら避けるようになった。そして今でも、あの出来事が現実だったのか、それとも自分の想像が生み出した幻だったのか、わからないままだ。
(了)