これは、私の母が若い頃に体験した話だ。
母は、ほんの少しだけ霊感がある人だ。霊を祓ったり会話したりはできないが、こちらに意識を向けている霊がいると、その気配を感じることができる。もともと感覚が鋭敏で、周囲の些細な変化にもすぐ気づく性格だった。だからか、彼女にはいくつかの不思議な体験がある。その中の一つをここで語ろうと思う。
これは、母が女子大生だった頃の話だ。時期は30年ほど前。母が通っていたのはH県のM大学で、女子寮に住んでいた。寮は4人1部屋で、下級生が上級生の世話をするという古い仕来りが残る場所だったらしい。夏の前期試験が差し迫る頃、奇妙な出来事は始まった。
ある日の夕方、寮の階段で幼い姉弟が走り回っているのを見かけた。姉は5~7歳くらいの女の子、弟はもう少し小さい男の子だった。母は特に気にせず、寮母さんの子供たちだろうと思ったという。
試験勉強のため、夜遅くまで机に向かう日々が続いていた。部屋の他の住人たちはそれぞれの場所で勉強しており、部屋には母一人だけ。深夜、背後に視線を感じて振り返ると、そこには昼間見かけた子供たちが立っていた。小さな声で「お姉ちゃん、遊ぼう」とせがんできた。
忙しい母は、机の上にあった紙とペンを渡し、「これで遊んでて」と促した。子供たちは大人しく机の片隅で絵を描き始めた。その様子に違和感はなかったという。しかし、気づいたときには子供たちの姿は消え、机に置いたはずの紙もどこかへ消えていた。
子供たちはその後も何度か現れた。決まって母が一人で部屋にいるときだけ。母以外が起きていたり、部屋に戻ってきたりすると、彼らは現れなかった。不思議だと思いつつも、母は深く考えなかった。
ある晩、試験勉強に追われる母のもとに、また子供たちがやってきた。母はいつものように紙とペンを渡し、彼らは楽しそうにお絵描きを始めた。しかし、その夜は少し違った。しばらくして、女の子が不思議な提案をしてきたのだ。
「お姉ちゃん、あそこの中に行こうよ」
女の子が指差したのは机の横の壁だった。普段ならただの白い壁があるはずの場所。しかし、そのときはそこにぽっかりと黒い穴が開いていた。穴の奥は闇が広がり、何も見えなかった。
母は不思議とその状況を異常とは思わなかった。目の前の穴を、あたかも「そこにあって当然」のように認識していたという。ただ、試験勉強に忙しかったため、「ごめんね、私は行けないけど、二人で行っておいで」と軽く返した。
姉弟は母に微笑みを向けると、手をつないでその黒い穴の中に入っていった。そして、それ以来、二人が現れることはなくなった。
後日、母は同じ部屋の友人たちに「寮母さんって子供がいたっけ?」と何気なく尋ねたが、誰も心当たりがない様子だった。気になって寮母さん本人に尋ねたところ、そもそも寮母さんには子供がいないことが判明した。
母に詳細を聞くと、いくつか奇妙な事実が浮かび上がった。まず、子供たちには一切の違和感がなく、まるで実在する人間のようだったという。声も仕草も、ごく普通の子供そのものだった。ただし、彼らが机で絵を描いているとき、机の狭いスペースが不自然に広がったように感じたという。通常、教科書やノートを広げるだけでいっぱいいっぱいの机なのに、子供たちが余裕でお絵描きをしていたのだ。それもまた、当時の母は全くおかしいとは思わなかったらしい。
そして、問題の黒い穴。「後になって思い出すと怖い」と母は言う。あの空間は「向こう側」につながっていたのではないかと。もしもあのとき、試験勉強がなければ、母は彼らについていってしまっていたかもしれない。そうしたら、戻ってこれなかったのではないか、と。
これが母の話だ。怖さよりも不思議さが勝る体験だが、どこかぞっとする部分もある。
ちなみに母は、こうした霊的な現象に遭遇してもあまり驚かないタイプだ。感覚が鋭敏で、背後に人の気配を感じると振り返る前に「そこにいる」と気づいてしまうからだという。私が子供の頃、こっそり驚かせようとしても、ドア越しに「何してるの?」と気づかれたものだ。
母から教わったのは、変な場所には近づくな、嫌な気配がしたらすぐ離れろ、ということ。それは今でも守っている。
母曰く、「気配というのは本能的なセンサー。無視しちゃだめ」とのことだ。
彼女の話を思い出すたび、あの黒い空間の奥に何が広がっていたのか、考えずにはいられない。
[出典:534 :本当にあった怖い名無し:2017/05/02(火) 15:16:49.30 ID:/bacVAp48]