実家の玄関には、古びた上がり框がある。
リノベーションはされているが、段差の多い古い家で、その中でも特にその段差は大きく、四十センチほどもある。そこに一枚板の式台が突き出している。祖父が言うには、祖母の実家から贈られたものらしい。神木から切り出された記念の板だと聞いた。
不思議なのは、その式台の左端に物を置くと、必ず夢を見ることだ。
夢は決まって、そこを踏むところから始まる。足の裏が沈み、ぐにゃりとした感触が返ってくる。次の場面ではリビングの引き戸がわずかに開き、祖父が無言で座っている。その顔は険しく、何かを言いたげだが、言葉は出てこない。間もなくして、家の奥から重い足音が響き出す。ダダダダダと畳を這い回るような音。金属と漆器が擦れるような不自然な響きが混ざる。そして、ずんぐりとした異形のものが現れ、部屋を見回し始める。私はその場から動けないまま、それに見つからないよう、ただ震えている。
それが何なのか、思い出そうとするたび、なぜか脳内ではダース・ベイダーに置き換えられてしまう。明らかに脳が本当の姿を隠している。輪郭だけが残っていて、それは甲冑を纏った何かだ。背は低く、肩と脚が異様に発達している。夢の中では動けないが、現実の感覚は鮮明で、音も重みも、祖父の視線すらも感じる。
祖父が生前、式台にタオルを置いていた理由を尋ねたことがある。すると、「婆さんの家系は神事に関わっていた。あの板は、神木から切り出された。だから式台の左には印を結ぶために物を置いている。お前がヘルメットなんぞを置くから、印が乱れるんだ」と言われた。祖母は長女で、その家系に特別な役割があったという。祖父の言葉には、はっきりとは語られない恐れが含まれていた。
式台の左側――ふと、陰陽道に詳しい友人が言った。「未申の方角だな。裏鬼門だよ。陰が開く場所だ」そう言えば、ほとんどの人間は右足から段差を上がるが、不思議と皆が「左端」と言えばそこを想像するという。裏鬼門に物を置くと、結界が揺らぐ。特に神木であれば、そこは“柱”となる。人と神を隔てる結界の索。それが解けるのだ。
妹が帰省してきた日、私と同じ夢を見たという。祖父と武者鎧の何かが出てきたと話していた。式台の上には、妹のキャリーケースが置かれていた。夢の内容を尋ねると、妹の方が私より詳しく覚えていた。どうやら、“それ”に見つかっていたが、祖父に庇われたようだ。女系に強く引かれるという陰陽道の理を考えると、妹の方がこの血筋を濃く継いでいたのかもしれない。祖母もまた長女で、神域から嫁いできた者だった。女が越えてはならぬ境を越えたとすれば、“それ”は本来彼女の後を追ってきたのだ。
祖父は何かを守っていたのだろう。だが、それを封じる術を知らなかった。だから、タオルを置き、語らず、見張り続けた。夢の中でも祖父は口を開かなかった。ただ一度、最後の夢でだけ、彼はこう言った。
「封じるんじゃない。忘れるな」
結界とは記憶だ。忘れた瞬間に、それは開く。夢で踏んだ位置を、現でもう一度踏まぬように。私は今夜も、式台の左端を思い出してから眠ることにしている。
[出典:840 :一枚板の式台 1/3:2024/06/22(土) 20:01:07.28 ID:b5lOLthO0.net]

「式台の左端に立つもの」解説
――“境界”としての空間と夢の儀式性について
文・怖いお話ネット
本作「式台の左端に立つもの」は、一見すると小さな“条件付き怪談”に思えるかもしれない。だがその実、語られる内容には、家屋の記憶、夢の構造、血縁の呪術性といった、幾重にも重なる怪異のレイヤーが埋め込まれている。単なる怖さの供給にとどまらず、“なぜ怖いのか”という構造的な問いに対する、極めて精密な回答でもある。
物語の中心にあるのは、旧家の玄関に残る「式台」である。とりわけ、その左端――高さ四十センチという段差の中間に突き出すように据えられた一枚板の、その「角」に物を置くと、決まってある夢を見るという。これは日常の中に潜む“境界”の象徴だ。現代の住宅からは失われつつある建築的構造が、異界との通路となっていることにリアリティが宿る。
夢は反復され、構成も極めて規則的だ。式台を踏む→異物感→引き戸の向こうに祖父→走り回る“何か”→夢の選択肢。まるで儀式のような進行が繰り返されるたび、読者は“これは仕組まれているのではないか”という疑念を抱くようになる。怪異が“気まぐれ”ではなく、“呼び出し可能なもの”であるという事実こそが、この作品に強烈な緊張感をもたらしている。
夢の中に毎回登場する祖父の描写も印象的である。無言で座り、視線だけを向けてくるという演出には、非言語的な恐怖と同時に、沈黙の中の庇護がにじむ。実際、終盤では祖父が語り手を“庇っているのではないか”という仮説が浮上し、それまでの「怖い存在」が「守る存在」へと反転する。怪談においてこれは非常に高度な演出であり、単なるおどかしや殺意に終わらない、“死者との関係”というテーマの深まりがある。
“それ”の姿は最後まで明かされない。夢から目覚めた語り手が姿を思い出そうとするも、「なぜかダース・ベイダーに置き換わってしまう」という描写は、記憶の防衛機能による隠蔽としても解釈でき、恐怖の余韻を残す。正体不明であることが恐怖を助長するという古典的手法が、ここでも巧妙に活かされている。
特筆すべきは、妹に対する怪異の“選択”である。祖母に憑いてきた“何か”が、同じ「長女」である妹に移っているのではないか、という推測が示される場面では、恐怖の矛先が語り手から他者へと移動する。それに伴い読者の感情も移動し、物語は単なる恐怖譚から「どうすれば防げるか」という生き残りの知恵へと変質していく。
そして最後に語られる「なぜ“左端”だと分かるのか?」という問いは、恐怖が人間の深層意識にまで及んでいることを暗示する。多くの人間が自然に“左端”を想像したという事実は、怪異が個人の体験を超え、すでに“共有された無意識”にまで踏み込んでいることを意味しているのかもしれない。
本作は、建築の細部・家族の記憶・夢の論理・儀式性・無意識――これらをすべて用いて、読者をじわじわと侵食するタイプの怪談である。「踏むか踏まないか」という極めて些細な行為に、ここまでの恐怖を宿らせる技巧は見事というほかない。
最後に言葉を添えるならば――
式台に物を置かないでください。
そして、その“顔”を、思い出そうとしないでください。