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自己認識は保たれている rw+6,419

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都内のある病院のロッカーに、封もされていないカルテが一冊残っている。

処分の対象にもならず、誰も触れようとしない。

表紙には赤いマジックで、たった一文だけ書かれている。

「毎朝、すべてがはじめてです」

その文字が、誰の筆跡なのかは分からない。

入院していたのは四十代の男性だったという。

術後しばらくしてから、彼は唐突に言い出した。

「……ここ、どこですか?」

数分後には、その質問をしたことさえ忘れる。

家族の顔も、名前も、生活も、十数分でほどけるように消えていった。

だが、奇妙なことに、彼は“紙”だけは信じた。

枕元に置かれたメモ。
冷蔵庫に貼られた付箋。
腕時計のアラーム。
風呂場の注意書き。

「あなたは退院しています」
「これはあなたの家です」
「目の前の人は妻です」

読み終えると安心した顔をする。
そして数分後、また最初から読む。

退院後、家の中は文字で埋まった。

玄関には「ここはあなたの家」。
洗面台には「鏡の中はあなた」。
寝室には「この人はあなたの妻」。

彼は毎朝、それらを順番に確認していた。

ある日、妻が一枚だけ、貼るのをやめた。

鏡の横の紙だった。

「これはあなたです」

理由は分からない。
ただ、もう十分だと思ったのだという。

その朝、彼は鏡を見て、長いこと動かなかった。

「……誰ですか」

後ろを振り返る。
誰もいない。

鏡の中の男は、瞬きをしなかった。

口元だけが、ゆっくり持ち上がっていく。

彼は慌てて目を閉じた。
開ける。
まだ笑っている。

目を逸らす。
もう一度見る。
変わらない。

それからというもの、彼は鏡の前でだけ黙るようになった。

ほかのことは忘れる。

朝食も、曜日も、妻の名も。

だが鏡の前で見た“あれ”だけは、
消えなかった。

忘れようとするたび、
鏡の中の男が、先に思い出しているようだった。

ロッカーに残されたカルテの最後のページには、追記がある。

別の筆跡で、短く。

「本人、自己認識は保たれている」

だが、どちらの“本人”を指しているのかは、
誰も確認していない。

カルテは、いまも封をされていない。

読むたびに、少しずつページが増えているという。

[出典:544 :本当にあった怖い名無し:2016/08/27(土) 08:20:53.33 ID:S/lXglXu0.net]

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