今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。
古い街道沿いの宿に泊まった時のことだ。木造三階建ての大きな建物で、瓦屋根の重みが軋みを孕んでいる。表には「創業三百年」と墨書きの看板が掲げられ、長い時間の堆積がそのまま空気に沈殿しているようだった。館内に足を踏み入れた瞬間、鼻孔を突いたのは畳に沁みついた燻り香と、床下から這い上がるような冷気。旅館の女将は愛想よく迎えてくれたが、その笑顔の奥に言葉にできない影が見えた気がして、私は軽く身震いした。
その晩は家族で二間続きの部屋に泊まった。薄い襖で仕切られた奥に両親と妹、手前に私。古い柱時計が一時間ごとに鈍い鐘を鳴らし、その音が木の梁を伝って宿全体にじんわりと広がる。寝付けぬまま耳を澄ますと、廊下の遠くから水の滴るような音が繰り返し聞こえた。やがてうとうとしたところで、尿意に突き起こされ、私は布団を這い出した。
目を凝らすと、襖の上にある欄間から淡い明かりがこぼれていた。隣の部屋には家族が寝ているはずで、灯りが点いているのは奇妙だと思った。廊下からの漏光ではない。畳を這う橙色が、襖の木目を揺らしている。胸の奥にひっかかる違和感を押し隠し、私は襖に手をかけた。
静かに開けると、そこには見慣れぬ光景が広がっていた。朱の着物をまとった女たちが数人、膝を崩して輪を作り、一人の男を囲んでいる。髷を結ったその男は、うっすら笑みを浮かべながら盃を受け取っていた。女たちは白粉も塗らず、しかし妙に艶やかで、血の通わぬ人形のように整った顔立ちをしていた。座敷の中央には行灯が揺らぎ、木の壁には影が幾重にも踊っていた。
私は咄嗟に「えっ」と声を漏らしてしまった。すると宴の全員が、同時にこちらを振り返った。凍りついた。数十の瞳が一斉に私を射抜き、微笑も声もすべて止まった。そこにあるのは人間の視線ではなかった。虫が光に群がるような、意志なき凝視。喉の奥が詰まり、慌てて襖を閉めた。心臓が破裂しそうなほど暴れていた。
恐る恐る再び開けると、そこには布団に沈んで眠る家族がいた。欄間の光も消え、ただ月明かりが障子に滲んでいるだけだった。私は膝をつき、しばらく立ち上がれなかった。
翌朝、誰も不思議なことは口にしなかった。母も妹もぐっすり眠っていたといい、夜中に灯りを点けた覚えはないと笑った。私は黙って頷いたが、胸の中の冷たさは消えなかった。あれは幻覚だったのか。それとも旅館に沁みついた時代の残響を覗いてしまったのか。
だが、その夜を境に私は奇妙な夢を見るようになった。薄暗い座敷で、朱の着物をまとった女たちがまた盃を回し、中央の男が静かにこちらを待っている夢だ。必ず最後には、全員の瞳が揃って私を見据える。夢の中で襖を閉めることはできない。視線の重さに押し潰されそうになり、絶叫とともに目を醒ます。
三度目の夢の朝、私は鏡に映った自分の首筋に小さな朱色の痣を見つけた。火箸を押し当てられたような円形の痕。痛みはないが、見れば見るほどそれは酒の盃の縁に似ていた。旅館を去って何年も経つが、痣はいまも消えていない。
私は時々思うのだ。あの宴席の男は、もしかしたら未来から連れて来られる「次の客」だったのではないかと。そしてあの視線の先に、もう一人分の空いた席があったように、どうしても思い出されてならない。
[出典:343 :本当にあった怖い名無し:2010/08/19(木) 12:14:29 ID:9vd/5FH2O]