それはおじいがまだ子供の頃の話。逆算するとだいたい終戦直後くらいかな。
985 :J/vgdWbU0:2012/06/28(木) 19:04:05.58 ID:7MSVCNFr0
場所も言ってしまうが、沖縄は宮古諸島の伊良部島という小さな島。
その当時はおもちゃなんて物はもちろんなくて、サザエのフタやら米軍が落とした爆弾の破片やらを遊び道具にして、海やら森やらで遊び回っていたそうな。
小さな島なので遊び場は少なく、やがて行動範囲は大人たちが「行くな」と念を押す森の奥にまでなっていった。
その日も友達数人と一緒にサトウキビを咥えながら森の中を探検していた。
すると、大将格の一人が「なんか声が聞こえる」と言い出した。
よく耳を澄ますと確かに、どこか遠くで何かが鳴いている。
奇妙に思いながらも皆、声の方向へ一直線に進んで行った。
だいぶ声が近くなって来た所で先頭を歩いていたガキ大将が急に立ち止まった。
その視線の向こうには、何かこんもりとしたモノ。
探検隊は慎重な足取りでそれに近づいていった。
「ィィィイイイ!ィィィイイイ!」
不気味な声で泣きわめくそれは、よく見ると赤ん坊だった。
それも血塗れで、頭が大きくひしゃげ、真っ赤な目玉が両方とも飛び出していたそうだ。
その上、その赤子の周囲にはたくさんの蟹やオカヤドカリが群がり、赤子の肉や皮をついばみ、引っ張っている。
その異常な光景にしばし言葉を失くして立ちすくんでいたが、やがてガキ大将を先頭に森の出口に向かっていっせいに走りだし、転がるようにしてやっと家についた。
その時の誰一人として、その出来事について親に話したりはしなかったそうだ。
昔の沖縄は火葬ではなく風葬が行われていた。
お墓の中に死体をそのまま置くのだ。
だが、生後十日以内の早死の子は魂のアクマの子とされて、そのまま森や洞窟に捨てられてしまう。
アクマの子の魂がまた戻って来ないように、次はまともに生まれ変わるようにと、そういった思いが込められているのだそうな。
(了)
参考文献
琉球大学の民俗学実習に伊良部島での報告がある。2002年に調査を行っているのでさほど古いことではない。
ここにアクマガマにまつわる民俗を報告している。アクマガマとは月足らずで生れてすぐ死んだり、流産したりした新生児をいうのである。このような新生児はだめな人間、モノという意味でアクマガマ(あるいはアクマ)とよばれたという。
「人間として生れるべきものが、悪い目にあって死に、あなたはもうアクマだから世の中には出てこないで、今度生まれ変わって出てくる時には、立派な人間になって出てきなさい。」といって捨てられたという。伊良部島の国仲集落ではターとよばれるところに捨てられた。そこはとても汚い山ともアクマの巣、アクマの家ともいわれ、誰も近寄るものはなかったことを聴取している。
『伊良部村史』は佐良浜集落のこととして、十日ンテ(十日満)までに死んだ新生児は、ぼろやムシロに包んで人が寝静まった夜に、大主神社(オハルズ御嶽のこと)裏側のアクマステ、ウホガー(アクマを捨てる大きな洞穴)に投げ込んだという。
国仲集落のター周辺は地形が変わってしまい確認できなかったが、佐良浜ではオハルズ御嶽の裏側ということで現地を踏査した。
佐良浜集落のある北海岸の絶壁と海食洞窟。アクマガマが投げ込まれたという。波浪が直接打ちつける海岸である。絶壁は20メートル以上の高さになる。
当日は北風が強く潮が海岸の崖に吹きつけていた。御嶽は崖に立地して背後の民家の細い路地を崖縁まで出ると、下に降りていく階段状の道になっていた。しかし、写真に見る洞穴にたどりつく道はない。アクマガマは崖上から投げ落としていたのだろうか。
アクマガマのことは池間島でも報告されている。内容は伊良部島のものとほぼ同じであるが、野口武徳さんの報告は最も衝撃的である。
「大正末年ごろまでのこととして、誕生後2週間ぐらいまでに死んだ子はアクマとよんだ。親類の男の人が斧や包丁などの鋭利な刃物で、ずたずたに切って、「二度とこんな形で生れてくな。」といいながらi-nu-ku(北の湾)の洞穴に捨てたという。」
野口さんが報告した「二度とこんな形で生れてくるな。」とは、伊良部島の民俗調査で、なぜ流産や生れてすぐ死んだ赤ちゃんを、このように粗末に扱うのかという素朴な問いに答える。伊良部島の伝承では、アクマガマを手厚く葬るとその霊が再びもとの産婦に身ごもらせるといわれた。また、この葬式に出会う人にはアクマガマが乗り移り将来この人はアクマガマを生むといわれた。
さて、このような幼児の特殊な葬式(葬式とは到底よべない)は、伊良部島や池間島に限られているのであろうか。
事例は少ないが、池間島の対岸に位置する狩俣集落でも、幼くして死んだ子どもはアクマと呼ばれて海岸に埋められた。沖縄本島名護市汀間では7歳になる前に亡くなれば、子どもの亡がらはかごに入れて木に架けておいたといい、伊平屋島では同じく7歳以下の子どもはガジナ原のアダン山の中に一定の場所を設けて、アダンの根元に縛って風葬したと報告している。
津堅島では死産や一ヶ月以上育たなかった子どもは、子どもだけを置くチニン墓に葬ったが、そのような場合は捨てるという言葉で表現したと仲松弥秀さんは記録している。新生児の亡がらは正式な葬儀はされず、ほぼ捨てるという状態にあったことは、沖縄のかなり広範囲に認められた民俗事象といえる。
また、新生児でもいつまでこの世で生きていたかにより、アクマガマとよばれて捨てられるか、正式な葬儀が行われるかの節目が存在したのである。ここには、新生児を直ちに人間とは認めない期間が厳然と存在したとのである。
このような新生児に対する奇異とも思える処置は、もっと深いところで死後世界の観念と通底していると思われるふしがある。事例で示した津堅島や池間島、狩俣などでは一般人の葬式でも死後の供養はほとんどなく、埋葬された場所は顧みられることはなかったという。沖縄本島に近い津堅島では、死後一年目の七夕での供養が終了するとそれ以後の供養はなく祖霊一般として扱われたのである。
伊良波盛男さんは、池間島の今は埋め立てられてしまったアクマッシヒダ(アクマを捨てる浜)のことを印象的に語ってくれた。そこはユニムイ(池間湿原)に入る湾口にあった浜で、白砂が一帯に広がっていたという。興味深いのは、この砂浜でかつてはお産が行われていたという。もちろん砂の上で直にお産はできないわけで、何らかの産屋が建てられていたことが示唆された。また、このお産の浜とアクマッシヒダが隣接していた事実である。
人間として誕生するか、アクマとして捨てられるかという生と死の境界地でお産があったということになろう。
[出典:http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/oki7.htm]