都内のある病院のロッカーに、封もされていないカルテが一冊残っている。
処分の対象にもならず、誰も触れようとしない。
表紙には赤いマジックで、たった一文だけ書かれている。
「毎朝、すべてがはじめてです」
その文字が、誰の筆跡なのかは分からない。
入院していたのは四十代の男性だったという。
術後しばらくしてから、彼は唐突に言い出した。
「……ここ、どこですか?」
数分後には、その質問をしたことさえ忘れる。
家族の顔も、名前も、生活も、十数分でほどけるように消えていった。
だが、奇妙なことに、彼は“紙”だけは信じた。
枕元に置かれたメモ。
冷蔵庫に貼られた付箋。
腕時計のアラーム。
風呂場の注意書き。
「あなたは退院しています」
「これはあなたの家です」
「目の前の人は妻です」
読み終えると安心した顔をする。
そして数分後、また最初から読む。
退院後、家の中は文字で埋まった。
玄関には「ここはあなたの家」。
洗面台には「鏡の中はあなた」。
寝室には「この人はあなたの妻」。
彼は毎朝、それらを順番に確認していた。
ある日、妻が一枚だけ、貼るのをやめた。
鏡の横の紙だった。
「これはあなたです」
理由は分からない。
ただ、もう十分だと思ったのだという。
その朝、彼は鏡を見て、長いこと動かなかった。
「……誰ですか」
後ろを振り返る。
誰もいない。
鏡の中の男は、瞬きをしなかった。
口元だけが、ゆっくり持ち上がっていく。
彼は慌てて目を閉じた。
開ける。
まだ笑っている。
目を逸らす。
もう一度見る。
変わらない。
それからというもの、彼は鏡の前でだけ黙るようになった。
ほかのことは忘れる。
朝食も、曜日も、妻の名も。
だが鏡の前で見た“あれ”だけは、
消えなかった。
忘れようとするたび、
鏡の中の男が、先に思い出しているようだった。
ロッカーに残されたカルテの最後のページには、追記がある。
別の筆跡で、短く。
「本人、自己認識は保たれている」
だが、どちらの“本人”を指しているのかは、
誰も確認していない。
カルテは、いまも封をされていない。
読むたびに、少しずつページが増えているという。
[出典:544 :本当にあった怖い名無し:2016/08/27(土) 08:20:53.33 ID:S/lXglXu0.net]