あれは、妻が妊娠していた頃のことだ。
中期に差しかかったあたりからだったと思う。彼女は四六時中眠そうで、気づけばまぶたが重たそうに閉じていた。眠気というより、まるで意識が夢の中に引きずり込まれているようだった。
定期検診のついでに相談しても、医師の反応はいたって冷静だった。
「特に異常は見当たりませんね。こういう症状を訴える方も実際多いんですよ。ただ、なるべく生活のリズムを守って、軽い運動も取り入れてください」
それを聞いて少し安心したものの、彼女の様子は次第に変わっていった。
妊娠後期に入る頃には、ほとんど一日中ベッドの中。眠気が支配しているのか、体が動かないのか、理由はわからない。とにかく、眠っていた。
「運動しないと、赤ちゃんが下りてこなくなるらしいよ」と休日に水泳や散歩に誘っても、彼女はただ「今は寝たい」と目を閉じたまま返すだけだった。
出産予定日が近づくにつれ、正直、恐怖に似た感情が湧いてきた。
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朝も夜もずっと寝ている
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食事もままならない(「食べてる」とは言うが、見るからに頬がこけ、手足が細くなっていく)
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物音を立てようものなら、怒声が飛んでくる
その頃の自分はというと、平日は気配を消して出勤し、帰宅しても寝顔を確認して酒を煽って寝るだけ。休日は家の空気が淀まない程度に家事をこなし、外出の口実を探しては失敗する。そんな生活を繰り返していた。
ある夜、仕事から帰り、静かに酒を口に運んでいたとき、テレビをつけた瞬間だった。
「うるさいんだけど」
隣の部屋から顔をのぞかせた妻は、青ざめた表情で怒気を滲ませていた。そしてそこから、怒涛の言葉が飛び出す。結婚前の話から現在まで、まるで抑え込んでいた感情が決壊したかのように。
なだめようとしても火に油で、ガラスのオブジェを私に向かって投げつけ、次々と壊していった。
いつどうなったのか記憶は曖昧だが、彼女は最後に、
「もう産んでやるから!」
そう叫んで寝室へ消えていった。
しんとした空気の中、ぼう然とソファに座り続けていた。時間にして二十分くらいだったろうか。
低いうめき声が耳に届く。慌てて寝室をのぞくと、そこにいたのは人間ではなかった。獣のような、何かだった。
思考が止まるなか、気がつくと子機を手にしていて、救急に「もう生まれそうなんです」と言っていた。
電話を切った直後、「あたまが」と妻が言った。
視線を向けると、本当に頭が出ていた。
泣きそうな目でこちらを見る彼女に、「もっと力んで。首が絞まる」と声をかけると、ズルリと胎盤ごと赤ん坊が現れた。
最初はぐったりしていた。死んでいるように見えた。けれど、まだ温かかった。
胸のあたりをやさしく押すと――「ひゃーー」と小さく泣いた。
その瞬間、膝が崩れた。
インターホンが鳴り止まず、電話も鳴っている。玄関を開けると救急隊員たちが待っていた。
「生まれました」と告げると、赤子と胎盤を銀色のシートに包み、妻も担架に運ばれていった。
「寒い、寒い」と言う彼女に、近くにあった自分のジーンズを肩にかけてやった。
その後、子どもは未熟児ではあったが、今ではすくすくと育っている。
妻も、毎朝6時に私を起こすような生活に切り替わり、まるで別人のように規則正しく暮らしている。
でも――
あの夜のことが、どうしても頭から離れない。
ドアの向こうで彼女が「もう産んでやる」と叫んだとき、私は……たぶん、言ってしまった。
「勝手に生めよ、ボケ。いつまでもだらだらしやがって。一人で苦しんでるつもりか? 誰が働いて金稼いでると思ってんだよ。お前なんか、畑の腐葉土みたいなもんだ」
そんな言葉を。
彼女はあれから、その話を一切しない。あのときの怒りも、悲しみも、すべて無かったことのように、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくる。
聞こえてなかったのか?
それとも、聞こえていた上で、何も言わないだけなのか?
あの笑顔を見るたびに、背筋が冷たくなる。
――完。
[出典:439 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/09/10 13:59]