二十代の頃、バイクに夢中だった。
休日はツーリングに出かけるのが定番だったが、それだけでは物足りなくて、横浜での仕事が終わる(だいたい20時半頃)と、週に1~2回は夜間ソロツーリングに出かけていた。
夜のツーリングといっても、三浦半島を半周したり、首都高を走ってPAでのんびりしたりするくらいの軽いものだ。遅くても24時頃には東京の自宅に帰り着くようにしていた。
そんなある日、翌日が休みで気温もちょうどいい夜だったこともあり、少し遠くまで行ってみようと思い立った。東名高速を使って箱根方面に足を伸ばすことにしたのだ。
箱根には御殿場側から登る長尾峠という峠道がある。乙女道路(乙女トンネル)という整備された道もあるが、長尾峠はまるで林道をそのまま舗装したような古めかしい裏道で、道幅が狭く、ガードレールや車線も所々にある程度。登り切った頂上にはドライブインがあるが、平日の夜間は当然閉まっている。麓から頂上までの道は照明も一切なく、真っ暗だ。
周囲には民家も建物もなく、道幅が狭いせいか走り屋たちもほとんど来ない。唯一、頂上付近の広場で四輪車がドリフト練習をしているのを一度だけ見たことがあるくらいだ。要するに、夜にこの道を通るのはかなり物好きな人間だけだろう。
その日も、23時頃にその道に入った。すると、しばらくして箱根特有の霧が現れ始めた。登るにつれ霧はどんどん濃くなり、視界は20メートル先までしか見えないほどに。狭い山道に濃い霧。さすがに引き返すべきかとも思ったが、翌日が休みという気楽さもあって、時速20キロくらいで慎重に進むことにした。
対向車とも全くすれ違わず、頂上まであと四分の三ほどの地点まで来たときのことだ。ライトがかろうじて照らす中、前方に何か立っているのが見えた。
最初はカーブミラーか標識だと思ったが、どうも人間の形に見える。だが、この辺りに人がいるはずがない。周囲に民家も建物もなく、徒歩でここに来るのは非現実的だ。しかも、それは道路から外れた藪の中に立っている。
その瞬間、脳裏に「幽霊か?」という言葉が浮かんだ。オカルト体験なんて全く縁のない自分がそんなことを考えるとは思わなかったが、状況が状況だけに仕方ない。
一度Uターンしようかとも考えたが、狭い道で慌てて失敗し、転倒するリスクが怖かった。そして、不思議なことに、「近づいて確かめてみたい」という気持ちも湧いてきた。結局、ジョギング程度の速度でその「何か」にゆっくり近づいていった。
ヘルメット越しに心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。ついに「それ」がはっきり見える距離まで来た。
そこにいたのは、人影だった。道端の草むらの中で何か動いている。驚いたようにこちらを振り返ったその人影は、カーキ色の上下を着て、ヘルメットをかぶり、背のうのようなものを背負っていた。
自衛隊員だ!
その姿を見て、ほっとした。「夜間訓練でもしているのか」と思いながら、彼を横目にそのまま道を進んだ。
これで終わりの体験だ。「なんだ、大したことない話だな」と思うかもしれないが、実は少しだけ後日談がある。
数年後、自衛隊に所属し、東富士で演習経験のある知り合いにこの話をしたところ、意外な答えが返ってきた。
「箱根山中で夜間訓練なんて聞いたことがないな。夜間行軍はあるけど、箱根は一応観光地だからね」と。
もちろん、彼が知らないだけで、別の部隊ではそういった訓練が行われていた可能性もある。しかし、話を聞いた後で改めてあの日のことを思い返すと、霧の中で見た軍服やヘルメットの姿が、現代の自衛隊というよりも、どこか古めかしい、旧日本軍のようだった気がしてくるのだ。
(了)
[出典:688 名前:元ライダー 1/3[sage] :04/08/17 11:11 ID:gadZSogD]