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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

裏返った名札 n+

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今でも編集部の夜を思い出すと、湿った紙と古いインクの匂いが喉の奥にひっかかる。

あの話をしてくれたのは、地方紙から移ってきた校閲担当の女性だった。彼女はいつも名札の角を親指で擦っていて、それが妙に落ち着かない仕草に見えた。

零時を少し過ぎた編集部。蛍光灯は風もないのに唸り、誰も呼ばないはずのエレベーターが、一定の間隔で到着音を響かせる。音が廊下に走るたび、空気がわずかに震えたという。電話は鳴らない。鳴らないこと自体が部屋の底にたまっていたと、彼女は言った。

机の端にはキャップの外れた蛍光ペン。匂いが揮発し、背もたれは静かに前へ押し返す。彼女は活字に触れている感覚を持ったそうだ。紙と指が呼応しているようで、校閲の作業がいつもの「記号の確認」ではなく、どこか「体に触れ返してくるもの」となった。

ある原稿の束に「神話」と手書きされた表紙があった。本文は整っており、フォントも規則正しい。けれども行間から立ち上がる冷え方が、印刷の冷たさとは違っていたらしい。誰かの息が沈んで乾いたときにだけ残る、人工的な冷気。その違和感が紙の手触りにまで沁みていた。

文章は「情報があれば、その背後に対象がある」と始まる。校閲を進めようとしても、句点ごとに肩が軋み、目線が重く落ちる。彼女は「文章のほうが自分を知っている」と言った。赤ペンを入れようとすると、紙が一歩だけ遠のく。呼吸するように。

中ほどには「無名のソースは『個別に自立した宇宙存在』を名乗る方が受け入れられやすい」と書かれていた。その瞬間、冷蔵庫の音が止み、空気の中に「空欄の束」のような匂いが現れた。煙ではなく、未記入の履歴書を束ねたときの、あの無色の重み。

固有名に指を置くと、黒は黒でなくなった。光も返さず、ただ空気の温度を奪って井戸のように沈む。名札を擦ってもプラスチックの光沢しか動かない。だが胸の下では、別の文字がめくれる気配があったという。

赤ペンでその「井戸」に印をつけようとしたとき、インクではなく紙の白が吸い込まれた。室内の影が一呼吸ぶんだけ短くなった。朝まで戻らなかったと、彼女は苦笑した。

差出人は不明。封筒の消印は滲み、本文には「名前はエゴであり、不要な次元では持たない」と繰り返されていた。彼女が窓枠に触れたとき、指紋だけを選んで冷たさを残す膜に触れた。

編集長が読んだ。三行目で黙り、四行目で眉間を押さえ、「出すべきだ」と短く言った。だが固有名は仮名に置き換えるよう指示された。蛍光灯が瞬いたのは電圧のせいではない、と彼女は思った。井戸口に仮の蓋が置かれただけだった。

置換作業を進めると、肩の筋肉が静かに噛み合い直す。名はただの記号ではなかった。最後の章には「自分は神であるという言説は便利な方便」とあった。その「便利」という言葉だけが皮膚にざらつきを残した。

掲載は行われた。本文の固有名は仮名に差し替えられ、余白を大きく取って紙が呼吸を続けるようにした。記事への反応は涙、怒り、沈黙と分かれた。怒りはざらつき、安堵は柔らかく、沈黙は厚みを持った、と彼女は表現した。

その後、匿名の封筒が届いた。黒い紙片に爪で刻まれた細い線。「ここ」とだけ記されていた。粉は出なかった。ただ鼻腔の奥が狭くなった。紙片を原稿の最後に挟むと、紙が静かに温度を移した。

やがて名札の印字が日に日に薄くなった。記事が読まれた分だけ淡くなり、呼吸は濃くなった。濃くなるほど外からは見えなくなった。冬が近づく頃、布は名札を拒むようになり、引き出しにしまうと独りでに裏返った。

彼女は最後に若い記者へこの出来事を伝えた。その記者も名札の角を擦る癖を持つようになったという。癖はうつるが、残るのは「名を薄くする感覚」だけだった。

「差出人のない手紙ではなく、差出人のない読み手だったのだ」と彼女は言った。読み手が名を借り、預け、薄くする。その当然の帰結が、名札の褪色だった。

編集部のゴミ箱には名札が増え続ける。誰かが拾い、また落ちる。落ちるたび名は薄れ、息は濃くなる。紙には書けない息だけが、読む者に残る。

掲示板には回覧が現れた。「名札の再発行について」。だが申請方法の欄は空白で、その下にまた爪の線。「ここ」とだけあった。

この話を若い記者が受け継いでいる。語るとき、彼も名を記さない。名を記すと紙の呼吸が止まるからだ。裏へ移った息は、誰のものでもなくなる。

だからこの話は、誰からのメッセージでも構わない。裏返った名札がひとつ、編集部の机の角に置かれている。裏面だけが清潔に保たれていて、そこにだけ説明を拒む空白がある。

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