「小屋の中の穴」の話は、俺の祖父が生きていた頃、夜の布団の中で小声で打ち明けてくれた体験談だ。祖父は口数の少ない人だったけど、その話をしているときだけは、子供みたいに表情を曇らせ、時折声が震えていた。だから今も忘れられない。
俺が子供の頃、祖父はよく「昔は村が一つの家族みたいなもんやった」と話していた。山裾にひっそりとひらけた農村で、外に出る人間なんてほとんどいない。結婚も葬式も畑の仕事も、村の中で完結する。互いに血のつながりがなくても、みんなが親戚みたいな顔をして暮らしていたそうだ。
祖父がまだ小学生の頃、その村で一番仲の良かったのが甲という同級生だった。祖父はよく甲と乙というもう一人の悪ガキと連れ立って、田んぼのあぜ道で鬼ごっこをしたり、肝試しをしたりして遊んでいたらしい。
ある日、甲が嬉しそうに「家に弟か妹ができる」と告げた。祖父は心の底から喜んだそうだ。「また家族が増える」と本気で思ったらしい。甲の両親はすでに名前まで用意していて、「大きなしあわせを作るように」と意味を込めたと甲は説明した。しかも「その名前はずっと前から決まっていた」とも言っていたそうだ。祖父はそのときは深く考えなかった。ただ、友達の家に赤ん坊が増えるのが楽しくて、笑って祝った。
ところが、しばらくして甲の顔つきが変わった。祖父と乙に神妙な面持ちで相談を持ちかけてきたのだ。
「父ちゃんが、毎晩どこかに行くんだ……。夜遅くにふらふら出ていって、戻ってくるのもずいぶん遅い。どこに行くのか聞いても教えてくれんし、帰ってくる時の顔が怖い」
祖父も乙も、最初は「出産のことで忙しいんだろう」と軽く言って取り合わなかった。だが、甲は必死で首を振った。「違うんだ。なんだかおかしい。父ちゃんが怖い」と泣きそうな顔で訴えた。大人たちに言っても、まともに聞いてくれなかったらしい。
どうしたものかと三人で黙り込んでいたとき、乙が突拍子もないことを言い出した。「じゃあ俺らであとをつけてみりゃいいじゃん」と。祖父も甲も唖然とした。夜中に外へ出るなんて、それだけで禁忌のように思えたのに、乙はわくわくしている。「なんだよ、怖いんか。甲は兄ちゃんになるんだろ」と挑発する。甲は「わかった、行く!」と息巻き、祖父も結局は巻き込まれる形になった。
夜、三人は甲の家の前で集まった。月があるとはいえ、灯りはほとんどなく、息が白く浮かび上がるほどの静けさ。しばらくすると甲の父がふらふら歩き出し、三人は必死に後を追った。
村を抜けると、家々の灯りが消えて、本当に暗闇だけになった。ざわめく森と、足元を渡る川の音。甲はもう泣きそうで祖父にしがみつきながら歩いていた。「帰ろう」と祖父が言い出そうとしたとき、乙が小声で「隠れろ」と叫んだ。甲の父が雑木林の奥の小屋に入っていくところだった。
しばらく待つと、甲の父は何事もなかったかのように小屋を出て、村へ戻っていった。乙はすぐに「帰り道は覚えた」と油と布切れでたいまつを作り、火を灯した。橙色の光が小屋の影を揺らす。祖父は安堵したが、乙は「中を覗こうぜ」と当然のように言った。祖父も甲も青ざめて首を振った。だが乙はまた甲を挑発する。「兄ちゃんが弱虫だと弟がかわいそうだな」。甲は意地を張って「行く!」と答えた。仕方なく祖父もついていった。
小屋の扉は古い木でできていて、開けるときギイと軋んだ。中は狭く、薄暗い。床の中央にぽっかりと穴が開いていた。木材が腐って崩れたような不規則な形ではなく、真円の穴。地面の土まで続いていて、深さはわからなかった。たいまつの炎をかざしても、底は闇に飲み込まれて見えない。
三人はただ身を寄せ合い、息をひそめた。だが乙だけは平気な顔で笑い出した。「便所だよ、これ。四隅に紙が置いてあるだろ? それで尻を拭くんだ!」と。祖父は最初はきょとんとしたが、次第に安心して笑った。何をこんなに怖がっていたんだ、と。だが甲だけは笑わなかった。穴の縁を見つめながら、小さな声でつぶやいた。「違う、便所じゃない……。壁、おかしい」
三人が振り向いたとき、血の気が引いた。壁一面に、紙がびっしり貼られていた。名前が書かれた紙だ。村人の名ばかりだった。祖父の名も、乙の名も、甲の名もそこにあった。甲の母や父の名前まで。誰一人漏れなく壁に封じられていた。甲が紙の束をめくると、そこには弟や妹に名づける予定だった名前まで書かれていた。まだ生まれてもいない、未来の子の名だった。だが、もし産まれなかったら? 名は無駄になる。その「無駄な名」が、ここに捨てられているのではないか。
「ここに村がある……」祖父はそう思ったという。四方の壁にびっしり貼られた名前。床の真ん中の暗い穴。産まれていない子供たちの名。名を棄てるための場所……。
そのとき、ぱちりと音を立ててたいまつの火が消えた。小屋は闇に沈み、三人は悲鳴を上げて飛び出した。どこをどう走ったのか覚えていない。ただ息が切れるまで必死に逃げた。
それから間もなく祖父の一家は関西へ引っ越した。村のことを尋ねることはなかったし、大人に小屋のことを聞く勇気もなかったという。祖父はその夜のことを話し終えるとき、いつも決まって同じ言葉で締めくくった。
「あの紙には、産まれなかった子の名前も全部あったんや。甲の家で弟が生まれたら、妹用の名前はいらんやろ。誰も使わんその名前は……きっとあの穴に捨てられたんやろな。昔からずっと。あの穴は“いらん子の名前”で埋まっとったんや。……今でも、よう行く気にはならんわ」
祖父はそう言って目を閉じた。俺は布団の中で息を殺しながら、その声を聞いていた。背中を撫でるような寒気が、朝まで消えなかった。
(了)