小学校三年生の頃のことだ。
まだランドセルの匂いが新しく、遊ぶことと空想することだけで毎日が満ちていた時代。
きよみちゃんという女の子がいた。いつも一緒にいて、家を行き来し、互いの匂いまで知っているほどの仲だった。私にとって唯一無二の友達であり、誰よりも信じられる存在だった。
あの日、彼女の家の台所のテーブルに並んで座り、ふたりでコロコロコミックを広げて読んでいた。ページの隙間からはインクの匂いが漂い、蛍光灯の光が少しだけ黄色を帯びて紙に落ちていた。
開いたページは「ドラえもん」。
ドラえもんがのび太に不思議な絵本を渡していた。切り抜き絵本。ケーキや車や家……それを切って組み立てると本物のように食べられたり、乗れたりする。子供の心を根こそぎ奪うような道具だった。
私ときよみちゃんは目を輝かせた。
「これ、やってみよう!」
色鉛筆を持ち出し、画用紙を広げ、ハサミを握る。
もちろん、本物になるはずがないことくらい分かっていた。けれど、色を塗りながら、紙を切り抜きながら、二人は心のどこかで「もしかして」と思っていたのかもしれない。
時間を忘れ、机の上は画用紙でいっぱいになった。
気がつけば窓の外は橙色に染まり、私が帰らなければならない時刻が迫っていた。
玄関まで見送ってくれたきよみちゃんが、ふいに言った。
「ぶるぶるちゃん。今日のこと、大人になっても忘れないで」
ぽかんとした。
何を急に言い出すんだろう。普段から突拍子もないことを言う子ではあったが、その時は妙に真剣な声だった。
「なんで?」
思わず問い返すと、彼女は少し視線を伏せ、それから顔を上げた。
「今日の私、三十二才の私なんだ」
脳が理解を拒む。
子供の口から出るにしては、重すぎる響き。
「二〇〇二年。三十二才。ぶるぶるちゃんのこと思い出してたら、心だけ子供の私に飛んできちゃった」
私は馬鹿みたいに笑って答えた。
「ふーん、ドラえもんの未来から来たんだ!」
きよみちゃんは笑った。でも、どこか泣きそうな目をしていた。
「全然ちがう。マンガみたいな未来じゃないよ」
その言葉の重さに気づくほど、当時の私は賢くなかった。むしろ「空飛ぶ車があるんだろう」と本気で思っていたのだ。だからこそ、それ以上の質問もしなかった。
そして彼女と「また明日ね」と約束し、私は家に帰った。
翌日には、きよみちゃんは何事もなかったかのように振る舞っていた。私もすっかり忘れて、またくだらないことで笑い合った。
やがて五年生になったころ、私は引っ越した。そこからきよみちゃんと会うことはなかった。
――そして年月は過ぎた。
二〇〇二年、私は三十二才になった。
突然、あの日の記憶が胸を突いた。
忘れかけていたはずの玄関先、きよみちゃんの声。
「今日の私、三十二才なんだ」
あれは何だったのだろう。
本当に彼女の心は未来から来ていたのだろうか。
私はその後、転居を繰り返し、いまは海外にいる。きよみちゃんを探したくても、結婚していれば名字も変わっているだろう。糸口はなかった。
それでも思い出す。あの頃の私は片親で、それを理由に他の親からあからさまに差別されることもあった。教師でさえ「片親だから目つきが悪い」と言った。そんな環境の中で、きよみちゃんだけが私の味方で、友達で、居場所だった。
二週間ほど前、夢を見た。
夢の中に、きよみちゃんの家の台所が広がっていた。
六畳の居間に続く光景。緑の座椅子に腰をかけ、テレビを見ているきよみちゃんのお母さんの背中。
机の上にはコロコロコミック。画用紙。色鉛筆。ハサミ。
すべてが鮮明で、忘れていた細部までよみがえっていた。
きよみちゃんがケーキの絵を描き、私がその横でハサミを握って見つめている。
――夢の中で私は気づいていた。これは夢だ、と。
そして、口を開いた。
「きよみちゃん。今日の私も、三十二才だよ」
彼女は驚いたように目を見開き、すぐに泣き笑いのような顔になった。
「忘れなかったんだ、ぶるぶるちゃん」
涙がこぼれそうになるのをこらえ、私も言った。
「ドラえもんの未来じゃなかったね」
ふたりは笑いながら泣いた。笑いながら、声が震え、涙が止まらなかった。
そして目が覚めた。現実の三十二才の私の身体で。枕は濡れていた。
夢だったのだろう。
けれど私は信じたい。あれは時を超えた再会だったのだと。あの時、彼女が未来から心を飛ばしたように、今度は私が夢の中で過去へ心を飛ばしたのだと。
現実には彼女の所在もわからない。生きているのかどうかもわからない。
けれど、夢の中できよみちゃんは確かに笑っていた。あの頃のまま、色鉛筆を握りながら。
そして私の胸の奥に、言葉が残っている。
「今日のこと、大人になっても忘れないで」
――忘れてなんか、いない。
今も、これからも。
[出典:107 :ぶるぶる:02/08/20 02:01]