あれは、私の人生でいちばん背筋の冷える出来事だった。
何か直接的な被害に遭ったわけじゃない。ただ、思い返すと、どうしてあの場面で笑って応対できたのか、自分でも不思議でならない。
昼下がり、時計の針は三時を少し回った頃だった。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、背の高い、妙に痩せた男が立っていた。名を桐越と名乗り、主人の友人である加賀谷の上司だと言う。
開口一番、加賀谷が行方不明になったと告げられた。主人が同郷の友人だから、何か知っていることがないか――それが訪ねてきた理由らしかった。
私はすぐに主人に電話をかけた。受話口の向こうで主人は驚いた声をあげ、そんな話は初耳だと断言した。加賀谷の居場所も知らないという。私はそのまま桐越に伝えた。
桐越は、何か分かったらすぐに連絡をくれと言い残し、名刺を置いて帰っていった。
そのときだった。
理由は説明できない。ただ、あの男の姿を見送る背中に、言いようのない嫌悪感がまとわりついた。
笑顔は作っている。声も穏やかだ。だが、皮膚の内側に、こちらを値踏みする冷たい眼が潜んでいる……そんな気配が、離れなかった。
夜になって、主人が加賀谷の家に電話を入れた。そこで、奇妙な事実がわかった。
桐越はその日の昼前、加賀谷の妻を訪ねており、年賀状の住所録を受け取っていた。その中に我が家の住所があったという。
しかし、住所録を受け取ったのが昼前、そして私の家を訪れたのが午後三時。距離は百キロ以上。どう考えても常識的な移動時間ではない。
「まさか、住所録をもらったその日にそちらに行くとは思っていませんでした」
加賀谷の妻は電話口で、困惑混じりにそう言ったという。
その後も、桐越は毎日のように加賀谷宅へ現れ、住所録だけでなく、携帯の履歴まで要求したらしい。
深夜に突然訪ねてきては、重要な進展もなく、意味のない状況報告をして帰ることもあった。
「熱心なのはありがたいけれど……」
そう言いながら、加賀谷の妻は薄気味悪さを隠しきれなかったようだ。
主人によれば、加賀谷は以前、桐越に殴られたことがあるらしい。会社でも仲は険悪だった。そんな人物が、失踪した部下をこれほどまでに追い回す理由は、いったい何なのか。
さらに奇妙なのは、桐越が飛行機の距離にある加賀谷の実家まで足を運び、知人の連絡先を渡すよう迫ったことだ。
加賀谷の両親は、すでに妻から桐越の不可解な行動を聞いており、一切の情報を拒んだという。
その際、加賀谷の母が「警察が動いているのだから、素人が首を突っ込んで捜査を乱さないでほしい」と告げると、桐越の笑顔が崩れ、頬が小刻みに痙攣したそうだ。
あの不自然な笑み。あの眼の奥の冷たい光。
――私は、この話を聞きながら、昼下がりに玄関で見送ったあの背中を思い出していた。
やがて、桐越は殺人容疑で逮捕された。
主人経由で加賀谷の妻から聞いた話では、加賀谷は桐越の会社での不正の証拠を握っていたらしい。桐越はそれを探していたのではないか、という。
あの日、もし加賀谷が証拠を主人に送っていたら――
もし私たちが、その意味も分からず桐越に渡してしまっていたら――
もし加賀谷の妻が証拠を会社へ届けに行き、その姿を桐越が見ていたら――
考えるだけで、背中に氷の刃を押し付けられたような感覚が走った。
葬儀の日、幼い子どもを抱えた加賀谷の妻は、魂が抜けたような目をしていた。両親も、深く刻まれた皺の間から、声にならない嗚咽を洩らしていた。
棺の前に立った瞬間、重く、湿った空気が胸を押しつぶした。
「これが、殺された人間の葬儀の空気なのか」
足元がふらつき、吐き気に似た感覚が喉元までせり上がった。
後日、ニュースで事件が小さく報じられた。私は名前を伏せ、細部をぼかして、この出来事をこうして語っている。
だが今でも、玄関のチャイムが鳴るたび、昼下がりのあの光景が蘇る。
ドアを開けた瞬間、そこに立っているのが、頬を痙攣させたあの男なのではないかと――心臓が、ひやりと冷たくなる。
[出典:671 :名無しさん@HOME:2012/01/09(月) 10:06:56.57]