秘密結社~クロ教(クロ宗)の鉄の掟
大学院時代、民俗学の調査で甑島(こしきしま)を訪れたことがある。
それまでにも山間の隠れ里や、漁村に残る土俗信仰などを調べ歩いたが、あの島で目にしたものは、学問の名を借りて追い求めていた「民俗」という言葉の範疇をはるかに逸脱していた。
鹿児島の港からフェリーに揺られて数時間。観光客向けの島案内には、豊かな漁場や温暖な気候、断崖の美景が謳われている。だが、僕の目的はただ一つだった。「クロ宗」と呼ばれる隠れ宗教の痕跡を確かめること。その存在は論文や雑誌記事の脚注に小さく触れられるばかりで、実態を調べた者はいない。理由は単純だ。外部の人間を徹底的に拒絶するからだ。
地元の役場で話を聞こうとしたが、係員は目をそらして小声で言った。
「Tの集落へは行かない方がいいですよ。あそこは……島の者でも近づきません」
観光客に伝えるような冗談めかした言い回しではなく、本気で止めている声音だった。
だが研究者としての好奇心がそれを押しとどめることはなかった。むしろ燃料を注がれたように胸が高鳴った。港の食堂で酒を酌み交わした漁師から、さらに突っ込んだ話を聞き出すことができた。
「Tの奴らはみんな壁ん中に住んじょる。三メートルもあるブロック塀で家を囲んでな。外のもんは絶対に入れん。そん塀の向こうで何をしちょるかは誰も知らん」
漁師は酒気を帯びた息を吐きながら、声を潜めて続けた。
「死人が出るとよ、サカヤって呼ばれる役目の家に運ばれる。けんどな、あれは死人やなか。まだ息しちょるうちに布でぐるぐる巻きにされて出てくるんじゃ。血のにじんだ布でな……」
その夜、宿の薄暗い部屋で眠れぬまま反芻した。血。布。生き胆。書物の中で触れた曖昧な伝承が、急に重みを持った現実の像を結びはじめていた。
翌朝、僕は地図に印をつけたT集落へ向かった。島を横断する道は狭く、雑木に覆われて昼でも陰鬱だった。突然、視界が開けたかと思うと、斜面にひっそりと寄り添うように二十軒ほどの家々が現れた。漁師の言った通り、どの家も厚い塀に囲まれていた。塀の上にはガラス片が埋め込まれ、光を受けて鈍く光っている。まるで外敵を拒む牙のようだった。
人気はなく、子供の声も犬の吠える音も聞こえない。沈黙の集落を歩いていると、背後で軋むような音がした。振り返ると、塀の隙間から老人の顔が覗いていた。深い皺と濁った瞳。その視線が釘のように僕を射抜いた。声をかける間もなく、顔はふっと消えた。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背を伝った。だが足は止まらなかった。もっと知りたい、確かめたいという衝動が恐怖を凌駕していたのだ。集落の奥に進むと、ひときわ大きな塀が現れた。門らしき扉は閉ざされ、錆びついた南京錠がかけられていた。門の隙間から覗くと、白布を干した物干し竿が目に映った。その布には、赤黒い染みが点々とついていた。
吐き気をこらえていると、不意に背後から低い声がした。
「ここは……よそ者が来るところではない」
振り返ると、黒い着物をまとった男が立っていた。年齢は五十代ほどか。骨張った指先で僕の腕を掴み、力任せに道の外へと引きずろうとする。必死で名刺を差し出し、大学の研究目的であることを伝えたが、男は首を振った。
「名を残す気なら……命は残らんぞ」
その言葉の意味を考える間もなく、別の家の塀越しに女の声が響いた。
「サカヤさまがお呼びだ」
すると男は僕の腕を放し、ただ一言「行け」と呟いた。
案内されたのは集落の最奥にある建物だった。周囲の家よりもさらに高い塀に囲まれ、門の奥には薄暗い土間が広がっていた。中に足を踏み入れると、線香と血の匂いが混じり合ったような異様な臭気が鼻を突いた。
奥の座敷に通されると、白髪の老人が座していた。鋭い眼光を持ちながら、口元には薄い笑みを浮かべている。彼こそが「サカヤ」だと直感した。
「遠くから来たのだな。学ぶためか。ならば見せてやろう」
そう言って老人は手を叩いた。奥の戸が開き、布に巻かれた人影が運び込まれた。呻き声が漏れ、布がわずかに動いた。まだ生きている。布の隙間から滲み出す鮮血が畳を濡らしていく。
「これは、信の証だ」
老人は小刀を取り出し、布を切り裂いた。露わになった胸から、赤黒い液体が溢れた。信者たちが両手を差し出し、盃に血を受け取っていく。
喉の奥で叫びがせり上がったが、声にはならなかった。凍りついた僕の視線の先で、老人は盃を差し出してきた。
「おまえも飲め。そうすれば、外に戻れる」
その瞬間、理解した。拒めば帰れない。飲む以外に生き残る道はないのだと。手が勝手に伸び、盃を口に当てた。鉄錆の味が舌を刺し、喉を焼いた。
意識が遠のく中、耳元で老人の声が響いた。
「これでおまえも、クロの子だ」
目を覚ますと、港のベンチに座っていた。どうやって戻ってきたのか記憶がない。腕を見ると、赤黒い染みが点々とついていた。拭っても消えない。
その後、学会で報告しようと試みたが、資料はすべて紛失していた。ノートも録音機も、何一つ残っていなかった。ただ、夜ごとに血の味が甦り、舌にこびりついて離れない。そして、夢の中であの老人の声が繰り返される。
「おまえもクロの子だ」
いまも胸の奥で、その言葉が脈を打っている。