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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

空に『い』 n+

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今でもあの「い」を思い出すと、喉の奥がざらつく。

小さな頃の空はいつも身近な図書館で、洗濯物の匂いと鉄の網戸の音が混ざっていた。あの匂いを嗅ぐと、たとえ十年以上経っても、日の光の温度まで引き戻されるのだ。

舞台はいつも午後だった。窓から差す光はしばしば薄黄色で、空の色はまだらに冷たかった。雲は遠くで塊を作り、風は時折窓枠を震わせる。空を見上げると、いつものようにあの「い」が浮かんでいる。最初は小さな点のようで、だが少しずつ視界の中で文字になっていった。文字の線は、ペンのインクではなく、薄く滲んだ紙の繊維のように曖昧で、輪郭はふわりと波打っている。光の具合で濃淡が変わり、辺縁にはほのかな冷気がまとわりついていた。

視線を合わせると、心臓が微かに跳ねる感覚があった。胸が圧されるわけではない。むしろ喉の奥に小石が沈んだような、唾を呑み込みにくい重さを感じるのだ。言葉にするのが難しい揺れが体を伝い、手の甲の皮膚が少し冷たくなる。視覚以外にも、空気の匂いが僅かに変わる。埃混じりの乾いた香りに、遠い匂い——たとえば紙の古びた匂い、あるいは長い間閉じていた戸棚の匂いのような、記憶の溶けた匂いだ。

最初にその「い」を見つけた日のことは、子どもながら細部まで憶えている。近所の公園のベンチに座り、ポケットの中の小石を弄っていた時、ふと空が割れた。割れた向こうに、きれいな線でひらがなが浮かんでいた。丸でも棒でもなく、「い」だった。形を見るほどに不安は薄れ、代わりに奇妙な高揚が胸を占めた。喜ぶでもなく、怖がるでもなく、ただそこにあることを受け入れてしまう感覚。言葉にするならば、居心地の良い違和感とでも呼べるものだ。

その「い」は私だけに見えていると、直感が囁いた。周囲の子どもたちが砂の山を崩したり自転車で風を切る音がしても、「い」は私だけの景色だった。教室で友人に訊ねたら嘲笑されるだろうと幼い理解が働き、口は固く結ばれた。誰にも言わず、胸の内にその文字を育てた。すると不思議なことに、「い」は頻繁に姿を見せるようになった。晴れた昼、曇りの夕、テレビの画面の隅、遠くの山の稜線の上にも。だが写真には写らなかった。シャッターを切っても、フィルムにもセンサーにも「い」は残らないのだ。

時間が経つにつれて、「い」は変化を見せた。最初は小さく、人差し指の先ほどの存在だった。それが次第に大きく膨らみ、雲と同じくらいのスケールにまでなることがあった。ある日、空に浮かぶ「い」の片方が雲に遮られているのに気付いたとき、私は初めて震えた。文字は雲よりも上にある。雲が一部を隠しているのは、遠近の錯覚ではない。文字の面が、雲の上方に確かにあるのだ。雲の隙間から覗く線の先端は、光を反射して紙の縁のように光った。それを見た瞬間、世界が微かにずれて、地面の感覚が希薄になった。

「い」は一文字だけ、いつも単独で浮かんでいた。それは規則のようで、不可解ではあったが、安心感も与えた。毎日同じ時間に窓の外を見ると、文字はそこにあった。空気の質が変わるとき、たとえば雨雲の前触れや、夏の夕刻の湿度が上がったとき、文字の輪郭は柔らかくなり、淡い波紋が走った。視るときの温度感覚もある。寒い日は文字が硬く、夏の午後にはだらりと崩れた線を見せる。そんな些細な変化を手帳に書き留めていた。誰にも見せない観察日誌だ。

成長とともに、外の世界は広がった。図書館で本を漁り、地図を見て世界がどれほど大きいかを知った。そんなある日、家で見ていたテレビの旅行番組に驚いた。アメリカの荒野の空に、同じ「い」が浮かんでいたのだ。高く、低く、私の知る「い」と寸分違わない線で成り立っている。声を漏らしてしまい、家族が振り向いた。気のせいだと笑い飛ばしたが、私は内心で確信した。これは私個人の幻想ではないらしい、と。

その後も、媒体によっては「い」が視界に映ることがあった。ただし写真ではなく、映像やテレビのフィルム、あるいはコマ送りの映像の断片に限られていた。記録媒体には残らないのに、動く画面には滑り込むように見える。年を取るごとに、視力や注意力の変化と共に、「い」は少しずつ姿を薄めていった。最後に見たのは三年前の秋だった。いつもより線が弱々しく、文字自体がだるそうに宙にあった。風に吹かれた布団の端のように、だらけた輪郭が時折振れていた。

その時は以前ほど長居をせず、数十秒で消えてしまった。消え方も変わっていた。以前は夕方の西の空にゆっくりと浮かんで、夜が来るまで居座ったものだ。それが最後のときは、まるで呼吸を止めるようにひゅっと縮んで、溶けるように消えた。翌日も、その次の日も、何日も空を見上げたが「い」は戻らなかった。いつもいたものが突然いなくなると、空はほんの少し薄っぺらになった気がした。

そこから空を見続ける日々が始まった。晴れの日に、曇りの日に、通勤の合間にも視線は自然と空へと向かった。目を閉じると、あの文字の断面だけが滑り込んでくる。あの線の質感、あの冷たさ、そして消え際のだらしなさ。記憶の中で「い」は生き物のように動き回り、私の生活を静かに規定した。けれども現実の空には再び現れず、私は次第に自分が見ていたものが本当にあったのか不安になった。ある晩、夢の中で再会したとき、文字は口を持っていた。

夢の中の「い」は低く、ぽつりと音を立てた。その音は言葉ではなく、布の擦れるような、紙が折れるような音だった。音の後、記憶の中の私がふと気付く。見ているだけではなく、何かを求められているような気配がある。夢を見ながら何かに導かれ、私は手を伸ばした。指先が文字の輪郭に触れると、そこは冷たく、しかし決して痛みを伴わない。触れた瞬間、胸の奥に別の自分が立ち上がるような錯覚が走る。

目が覚めると手のひらは湿っていた。夢の余韻がまだ指先に残っている。次第に夢と現実の境は曖昧になっていった。昼間にふと見上げると、雲間に薄い影が差す。見間違いだろうかと首をひねると、その影は確かに「あの線」だった。だが僅かに違う。線がこちらを見下ろしているような錯覚がある。私が視るものを、あの文字が視返してくる。思えばそれは小さな変化だったが、変化はいつも小さな亀裂から始まる。

不穏さが増すにつれ、私は孤独を感じた。誰にも言えない秘密を抱え続ける疲れが積もり、夜の静けさが重くのしかかる。だが不思議と恐怖は膨らまなかった。代わりに、ゆっくりとした共依存のような感覚が芽生えているのを自覚した。文字は私の生活のリズムに合わせて現れ、私の視線を通じて世界を確かめる。世界を確かめる行為が互いの接触に変わり始めると、私はある種の親密さに震えた。

三年前の消失からしばらくして、私は短いメモを見つけた。子どもの頃に書いた観察日誌の端に、鉛筆で小さく「いへ」と殴り書きがあった。意味は分からなかった。だがその文字列の中で、私は気付いた。「い」と「へ」。道標のようで、方向の示唆にも見える。頭がぐらりと傾いて、古い写真の裏をめくるような気持ちになった。だれかが記したのか、あるいは自分が忘れていたのか。確かめようと庭に出ると、空は晴れていて、遠くに雲が薄く流れていた。

空に視線を戻した瞬間、その「い」が、再び姿を現した。だが今回は小さく、そして近かった。膝の高さにあるような、景色の中に不釣り合いなサイズで浮かんでいる。息が詰まる。身体の基盤が崩れる感覚がして、私はその場に座り込んだ。文字は静かに揺れ、風が私の髪を撫でる。近いからこそ見える細部がある。線の端に、微かな湿り気が滲み出している。触れられそうで触れられない、いくつもの境界が重なっている。

そして最後の瞬間、文字は私に向かってゆっくりと回転を始めた。それは単なる角度の変化ではない。回転するごとに、視界の色が剥がれ、世界の輪郭が一層薄くなる。回転が止まると同時に、私の視界は一枚の紙切れのように切り取られて街の上に貼り付けられた。声音のない感覚で分かった。私は、外から「い」を見ていたのではない。私が「い」になっていたのだ。自分の輪郭は消え、言葉の形に縫い合わされる痛みはないが、存在の質が変わるのがわかった。

空の中で、私はただ「い」である。誰かが窓から私を見上げるとき、その視線が触れるのは私の線だ。風が吹けば線は震え、人々の生活の断片が通り過ぎる。やがて私はゆっくりと向きを変え、子どもの頃に座っていた公園のベンチの上の空へ戻る。見下ろす景色は変わらないが、見られ方が違う。見られる側の世界が、これまでと逆転したのだ。

回転――循環――それが最後の形だった。私が「い」を見上げていた時間は、いつのまにか逆流していた。見ていたものと見られていたものが入れ替わり、私は空に浮かぶ一文字として、誰かの記憶に薄く残る匂いになった。夜になれば私の線はうっすら光り、通りすがる人々の視線と触れ合う。だが触れられることは、所詮一瞬の擦過で、写真には決して写らない。

最後に覚えているのは、乾いた紙の匂いと、自分の輪郭が波打つたびに感じる小さな孤独だった。文字は孤独だ。人の目を受け止めながらも、その実体を誰にも預けられない。私がかつて胸の内に抱えた孤独が、今では風景の一部となって漂っている。朝が来ると、私はまた窓の外に浮かぶだろう。誰かが「あの空にいる」と呟いても、写真は何も残さない。だがたまに、目が合う人がいる。目が合うと、ほんの少しだけ安心する。誰かが私の線の震えに心を奪われ、それを内に留めるからだ。

[出典:840 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.2][新芽]:2025/01/26(日) 22:03:54.96ID:MpYUF/gU0]

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