仕事に追われ、帰宅がいつも深夜にずれ込んでいたあの頃、
私は古びた安アパートに身を寄せていた。四万円の家賃に惹かれた部屋は、狭く薄暗い。廊下を歩くたび、壁紙の剥がれと湿気の染みが目に入る。雨の日などは特に、廊下全体がカビ臭さに覆われ、吐息まで重たく感じられる。
あの日も雨だった。会社を出た時には、コートが瞬く間に重く沈むほどの土砂降りで、傘をさしていても靴下の奥まで冷たさが染み込んでいた。息を切らしながらアパートに戻り、玄関前で足を止めた。床に濡れた足跡がついていたのだ。小さな裸足の跡が、廊下を進み、私の部屋の前でぴたりと途切れていた。
不思議に思ったが、そのときは疲労が勝っていた。喉の奥に「何かおかしい」という感覚を押し込め、鍵を開けて中に入り、布団に潜り込んだ。翌朝には、足跡のことなどほとんど記憶の隅に追いやられていた。
ところが数日後、また雨の日に同じものを見た。今度はもっと鮮明だった。小学生ほどの小さな足。指の一本一本までくっきり残っている。誰かのいたずらだと考えたが、この建物で子どもの姿など見たことはなかった。気味の悪さを覚えつつも、私は視線を逸らし、無理やり納得しようとした。
だが、それからというもの、雨の日には必ずその足跡が現れるようになった。廊下を渡り、私の玄関前で終わる。誰かが確かにここまで来ているのに、呼び鈴を鳴らすこともなく、姿もない。
ある晩、強い雨音が屋根を叩く中で帰宅したとき、私はついにその正体に直面した。いつものように玄関前には濡れた小さな足跡があった。しかし扉を開けると、今度は部屋の中にまでその跡が続いていた。私は鍵を閉めて出かけたはずだし、合鍵を持つ者などいない。なのに、濡れた足は私の布団の方へではなく、部屋の隅へと向かっていた。
足跡は、クローゼットの前で止まっていた。喉が詰まるように乾き、手のひらには嫌な汗がにじんだ。扉に触れると、布のような湿り気が伝わってくる。指先を離そうとしたが、何かに掴まれているように離せなかった。意を決して開け放つと、中は空っぽだった。だが床には小さな濡れた足跡が、くっきりと二つ残されていた。
その夜からさらに奇妙な出来事が積み重なった。シャワーを浴びると、曇った窓ガラスに知らぬ間に小さな手形が浮かぶ。浴室から出て振り返ると、手形は消えている。数日後には、私が寝ている間に机の上に水滴が点々と広がっていることもあった。大家に相談しても「そんな話は他では聞かない」と取り合ってもらえなかった。私は次第にここを出るしかないと決意していった。
引っ越しの準備は想像以上に骨が折れた。狭い部屋に無理やり詰め込んだ家具や荷物をダンボールに収めるたび、背中に汗が滲み、床に落ちたガムテープが湿気で剥がれていく。けれど段ボールが積み上がるごとに、ようやくここから解放されるという思いが胸の奥で膨らんでいった。
作業も終盤に差し掛かったある日、最後の荷物を持ち上げた瞬間、背後から視線を感じた。ひどく冷たい視線で、皮膚を針で刺すような感覚が背筋を走った。部屋全体が湿気を増したように重くなる。振り返ると、そこにずぶ濡れの少女が立っていた。
髪はぼさぼさに乱れ、額から水滴がしたたり落ちる。頬は血の気がなく、口をきゅっと結んだまま無表情にこちらを見ている。小さな体から滴る水が、床に足跡を広げていった。私は声を上げようとしたが、喉が硬直して音にならなかった。
「行かないで」
か細い声が、雨音に混じって届いた。胸の奥を掴まれたように心臓が跳ね、血が冷える感覚に襲われる。瞬きをした次の瞬間には、少女の姿はもう消えていた。だが足元には、まだ濡れた水滴が残っていた。
恐怖に駆られつつも、引っ越しの日は刻一刻と迫っていた。私は無理やり気持ちを押し込み、荷物をすべて運び出した。最後に玄関の鍵を閉めるとき、扉の内側から湿った冷気が吹き付け、思わず肩を震わせた。
新しい部屋は築浅のマンションで、前のアパートよりも清潔だった。オートロックもあり、しっかりとした壁に守られている安心感があった。雨音に怯える必要はもうないと自分に言い聞かせ、心の荷を降ろしたつもりだった。
だが安心は長く続かなかった。引っ越して数週間後、またも雨の日の帰宅時に、玄関前で小さな濡れた足跡を見つけてしまった。あのアパートの廊下で何度も見たものと同じ形。同じ大きさ。同じ指先の開き方。足跡は私の部屋の前で途切れていた。
胸の奥が冷たくなる。引っ越してきたはずなのに、まだあの存在はついてきているのだ。諦めるしかなかった。私は雑巾を常に玄関に置くようになり、雨の日には足跡を拭き取る作業を日課にした。
それは儀式のようなものになっていた。拭き取っても翌日にはまた濡れた跡が現れる。あたかも「ここにいる」と確かめるかのように。私は次第に、雨音を聞くだけで手のひらに汗が滲むようになった。
月日は過ぎた。仕事も転職し、生活は少し楽になった。けれど雨の日の儀式だけは続いている。どれほど部屋を整えようと、外でどれほど明るく振る舞おうと、雨の夜に帰宅すれば必ず玄関前に足跡がある。
ある夜、強い風を伴う雨の日のことだった。玄関の鍵を回すと、湿気を含んだ空気が押し出されるように漂ってきた。部屋の中は暗いままなのに、奥の窓ガラスがぼんやりと曇っているのが分かった。電気を点ける前から、小さな手形がそこに浮かんでいたのだ。
胸がひどくざわつき、雑巾を手にして近づいた。だが拭こうとした瞬間、手形の内側から水滴がひと筋、こちらへ向かって滑り落ちてきた。まるで内側に誰かがいるかのように。私は思わず後ずさりした。
その晩、布団に横たわっても眠れなかった。窓を叩く雨音と、床にぽたぽたと落ちる水の音が混じる。耳を塞いでも消えず、やがてそれが小さな足音に変わっていく。廊下を歩くのではなく、布団の周囲を回るように。瞼を固く閉じていても、足跡が広がっていくのを肌で感じた。
私はいつしか眠りに落ちたらしい。夢か現実か分からない世界で、ずぶ濡れの少女がこちらを覗き込んでいた。顔は表情を欠いているのに、視線だけは強く刺さる。唇がかすかに動き、声にならない声で同じ言葉を繰り返していた。
「行かないで」
はっとして目を開けると、布団の足元に濡れた足跡が三つ並んでいた。窓は閉まっている。鍵も確かにかけた。なのに、湿った冷気が部屋中を漂っていた。
私は雑巾を取りに立ち上がった。もう拭き取ることは習慣になっていた。けれど、その夜だけはなぜか、拭き取ってもすぐに跡が浮かび上がってきた。雑巾を絞り、水を捨て、再び拭く。その繰り返し。まるで「消すな」と言われているように。
気がつけば朝になっていた。窓辺には新しい手形が増えていた。曇りガラスの向こうから押しつけられたような、鮮やかな跡。私はふと気づいた。あの日からずっと、拭き取ることで自分がここに呼び込んでいたのかもしれない、と。
雨はやまない。これからもずっと、彼女は現れるだろう。私はもう抵抗をやめた。雨の日には、最初から雑巾を手に、彼女の足跡を迎えるようになった。
そして最近になって気づいた。濡れた小さな足跡は、私の部屋の前で途切れることはなくなっている。むしろ部屋の奥へ、私の歩く場所と並ぶように、確実に増えている。
[出典:778 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.11]:2025/01/22(水) 21:47:14.74ID:WNllj3Y10]