あれは事実だったと、今でも信じている。
もう何十年も前のことだ。なのに、つい昨日のことのように、肌に貼りつくような湿気や、騒然とした教室の空気を思い出せる。
昭和五十九年、大阪の千里丘にある〇〇第二小学校に通っていた。
そこには「SOS」と呼ばれる存在の話があった。妖怪とか幽霊とか、そういうものとは少し違っていて、もっと異様で説明しようのない「何か」だった。
校舎の裏手、体育館のさらに奥にあるトタン張りの物置。その横の旧校舎の二階、廃止された家庭科室。そこに、SOSが現れると噂されていた。
正確に言うと、子供たちは皆、「出てくる」というより「いる」と信じていた。
その存在が、ただの噂では済まなかった日のことを、今でも克明に覚えている。
ある朝の登校時。校門をくぐる前から、学校全体が異様な雰囲気に包まれていた。
「SOSの足跡が……天井にある」
口々にそう騒ぎ立てる同級生たち。押し寄せるように校舎へ走り込む。
旧校舎の脇に、吹き抜けの天井がある倉庫があった。高さは二階建ての家くらい。その真ん中の、手の届くはずもない天井の梁に、なぜか――足跡が、三つ。
どこからどうやってついたのかわからない。泥か錆か、乾いた暗い色で、くっきりと人間の足跡の形をしていた。
だが、それよりもっと忘れられないのは、その数日後の出来事だ。
いつものように授業を受けていた。何年何組だったかは忘れたが、確か理科だった気がする。
ふと、廊下の方からざわめきが聞こえた。ワーッ、ワーッと波打つような騒ぎ声。生徒たちの叫びに、教師の制止が混じる。
「SOSが出た!!」
隣のクラスから、顔を紅潮させた男子が走り込んできた。
「旧校舎や!旧校舎の二階の窓にSOSがおるんや!」
誰かが「ほんまか!?」と叫んだかと思えば、次の瞬間、クラス中が立ち上がって教室を飛び出していた。俺も、思わずその流れに飲まれていた。
二階の廊下に着くと、すでに廊下は生徒でごった返していた。興奮して泣き叫ぶ者もいれば、口をぽかんと開けたまま立ち尽くす者もいた。
「あそこや……あの窓のとこや……」
誰かが指さした先、旧校舎の家庭科室の窓。すりガラス越しに、それは、いた。
顔が――でかい。
真っ茶色の肌、ガラスいっぱいに張りつくような平たい顔。肩幅は異様に広くて、直線的な形をしていた。
なにより、目だ。黒くて丸い、ビー玉のような目が、こちらをキョロキョロと興味深そうに眺めていた。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、見ている。それだけなのに、全身が凍るような恐怖に襲われた。
誰かが泣き出した。誰かが叫んだ。「くそっ、オレが殺しにいったる!」
数人が旧校舎へと走っていく。止める先生の声も届かない。
俺も声を上げていた。気がつけば、みんなで一斉に叫んでいた。
「SOSやめてください!!SOSやめてください!!」
それがこの学校における“SOS怪談”のルールだった。
「SOSを見たら、そう叫び続けないと殺される」――皆、信じていた。俺も例外ではなかった。
本気で、殺されると思った。
命を守るために、無我夢中で叫び続けた。
その茶色い顔は、どこまでも静かだった。
怒りも喜びもない、感情の空白。たぶん、それが一番怖かった。
旧校舎の扉を叩く生徒たちの姿が、廊下の窓から見えた。
「出てこいや!!おれが殺したる!!SOS出てこいや!!」
その後のことは、正直覚えていない。どうやってその騒ぎが収まったのか、教師に引き戻されたのか、それともSOSが消えたのか。
気がつけば、いつもの日常に戻っていた。ただ、心の中には消えない跡が残った。
――そして、それから二十年以上が過ぎた。
平成二十年、夏。嫁と子供と三人で万博公園を訪れた帰り道、ふと、あの千里丘の校舎を見に行きたくなった。
「昔、ここに通ってたんや」なんて軽口を叩きながら、何の気なしに旧校舎の方へ向かった。
例の倉庫は、まだあった。少し古びてはいたが、構造は変わっていなかった。
見上げると――そこに、足跡があった。
あの時と同じ、天井の真ん中に、誰のものとも知れない足跡が、まるで刻印のように、はっきりと。
俺の記憶の中だけにあるはずのものが、今、目の前にあるという現実に、身体が震えた。
「記憶違いじゃなかったんやな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
あれ以来、SOSが再び現れたという話は聞いていない。けれど、俺は知っている。
あの存在は「消えた」のではなく、たぶん――まだ、いる。
物置の裏、旧校舎のどこか。今も、茶色い顔で、誰かを眺めているかもしれない。
そして毎年、夏が近づくと決まって感じる。
「もう一度、あそこへ行かなくてはならない」と。
あの扉を叩きたい衝動にかられるのだ。あの頃の自分と同じように。いや、もっと強い確信を持って。
「SOSは、本当にいた」と、誰かに伝えたい衝動が抑えきれない。
もし、あの時の子供たちが今もこの話を覚えているのなら……誰かが、同じ光景を見ていたのなら……この言葉を送る。
それが俺が「そこにいた」確かな証だ。
――「〇〇〇〇のタイヤ」
あれが何だったのかは、今でもわからない。
けれど、俺は知っている。あれは幻ではなかった。
ただ一つ、確かに言えるのは、SOSは人間じゃなかったということだ。
だからこそ今も叫びたくなる。
「SOSやめてください」――と。
[出典:484: 本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/06/01(日) 10:49:58 ID:9qy47WcX0]