あれは、結婚して最初の盆休みだった。
嫁の実家へ泊りがけで行ったときのこと。
中国山地の奥深く、地図で見るとただの緑のしみのような場所。最寄りの高速インターを降りてから車で二時間ほど。アスファルトが乾ききらず苔のように湿った集落が、まだ人の気配を保っているのが不思議なくらいだった。
生まれも育ちも大阪で、田んぼといえば郊外の区画整理地にぽつんと残されたミニチュア版しか知らなかった俺にとって、その風景はどこか絵本めいて、時間の止まった博物館のようでもあった。
その翌日。
もっと見てやろうと、嫁と二人、車に乗って適当に走った。ナビも使わず、ただ気まぐれにハンドルを切った。道路はどんどん細くなり、家のようなものも空き家のようにしか見えなくなった。田んぼも畑も、草が覆い尽くしていた。
「もう戻ろ?ほんまに山の中に入るで」と、助手席の嫁が言った。
「あー、そやな」と言いながらも、転回できそうな場所を探して車を進めた。
ほどなくして、未舗装のわき道を見つけ、そこへ車を差し入れた。ぬかるみのような空き地が斜面の合間にぽっかり開けていて、先へと続く踏み跡のような道。その真ん中が、かすかに光っていた。
「なんかキラキラしてるで」
「池ちゃう?……もうええやん、はよ戻ろ」
「まあまあ、ちょっとだけ」
俺はハンドルを握り直して、さらに車を進めた。草むらの奥、たしかにそれは小さな池だった。
二十五メートルプールより少し大きいかどうか、貯水池のようで、下の方にコンクリの水門がついていた。
山の向こうに沈みかけた夕陽が池の水面を照らして、ぎらぎらとまぶしいほどに光っていた。
「すごいな……ちょっと見てくるわ」
「私はええわ。ここで待っとく」
嫁は助手席でスマホをいじりはじめた。俺はそのまま池の方へ向かった。
草をかき分けるように進むと、池の縁に小さな木の鳥居が立っていた。腰の高さほどしかない、黒ずんだ古木でできた鳥居。後ろには何もない。ただ斜面と、暗く沈んだ水。
「なんやろ、こんなとこに……神社とかないよな……?」
鳥居の横を通り過ぎ、池の反対側にまわりこもうとしたとき。
しゃん……しゃん……と、鈴のような音が耳の奥をくすぐった。
風が揺らしただけかと思ったが、また聞こえた。しゃん……と、短く、断続的に。
誰かが近づいているような、けれど姿が見えない。思わず振り返る。誰もいない。木々も揺れていない。鳥も鳴かない。水も音を立てていない。
沈黙の中に、鈴の音だけがあった。
妙に肌寒くなってきた。空気が、なんだか濁っているような、埃のような粒子が混じっているような……。
そんなときだった。
ビーーーーーッ!!!!!
いきなり車のクラクションが鳴り響いた。
心臓が凍りつくような音だった。慌てて車の方を見ると、嫁が運転席に移って、ハンドルにしがみつくようにしていた。表情が異常だった。泣きそうな顔、けれど叫んでいた。まるで何かを振り払おうとするように。
「はよ乗って!はよ!!!」
息を切らせて戻ると、嫁がドアを引っ張り、俺を車内に引きずり込んだ。
俺が言葉を発する間もなく、車は勢いよくバックし、わき道から本道へ。
パーキングすら苦手な嫁が、迷いなくハンドルをさばき、車は猛スピードで山道を引き返していた。
しばらくして道が広くなったところで運転を代わった。
「……何があったん?」
問いかけると、嫁は涙目で首を振るだけだった。
家に帰り着いて、しばらくしてからようやく話してくれた。
俺が鳥居に差しかかる直前、嫁は車内でスマホを見ていた。ふと顔を上げると、俺の周囲がぐにゃりと歪んでいたらしい。陽炎みたいに、空気が熱せられて、もやもやと立ち昇っていた。
目を凝らすと、その中に赤と白の衣装を着た女の人が見えたという。
透けていた。
まるでガラス越しに見ているように。
しかもその背後に、黒い何かが複数浮かび上がっていた。
影の塊。形のない黒いものたちが、ふわ……っと、俺の背後に密着するように現れたと。
「後ろ!後ろにいっぱい、なんかついてた……!」
そう言って、嫁はまた涙ぐんだ。
俺が鳥居の横を通り過ぎる瞬間、それらの影が俺にまとわりつき、まるで吸い込もうとしているかのように形を歪めていたという。
「とにかく戻ってきてほしくて……だから、クラクション鳴らした」
そのとき、池の方からはまだ鈴の音が聞こえていた気がする。
帰宅して、義父に「どこまで行ってきたんや」と聞かれたとき、嫁は笑いながら「あの辺は〇〇町とか△△町かな」と何気なく答えた。義父も義母も、とくに何の反応も見せなかった。「なんもないやろ、あっちは」と笑っていた。
曰く付きの場所でもない。
何かの祟りとか、そういう伝承もないようだった。
けれど、その晩は俺も嫁も電気を消せなかった。
暗闇に溶ける、あの“黒い何か”が、まだ車の後ろに貼りついているような気がして。
翌日、近くの神社で災厄除けのご祈祷を受けた。車にもお祓いをしてもらった。お守りを握りしめる手に、まだじんわりと汗がにじんでいた。
あれから何も起きていない。
ただ、思い出すだけで、どうしようもなく、背中がざわつくのだ。
あの鳥居は何だったのか。
あの池は、誰のものだったのか。
何も知らずに踏み込んだのは――俺の方だったのかもしれない。
[出典:822 :本当にあった怖い名無し:2016/08/18(木) 14:49:20.22 ID:2y13l3CQ0.net]