親戚に《みちかさん》と呼ばれている人がいる。
本名ではなく、あだ名のようなもので、本人もそれを気に入っている。《身近》《未知か》《道か》──そんな意味が重なっているらしい。
彼女は北海道の紋別に住んでいて、今は四十五歳になる。東京で不動産会社の事務をしていたこともあったらしいが、あるとき突然辞めてしまった。その理由は、いまだ教えてくれない。旦那ともその頃別れ、子供は向こうが引き取っている。
彼女と初めて話したのは、僕が小四のとき。父の故郷を訪ねて家族で北海道に来たときのことだった。京都に住んでいた僕に、いきなり「お墓のある公園、あんたの家の近くにあるでしょ?」と訊いてきた。
一瞬、息が詰まった。どうしてそんなことを? 確かに家の近くに古びた公園があって、友達と「拝んだら霊が見える」とか言って遊んでいたけれど、そんなこと両親にすら話していなかった。
「むやみに拝んだらダメだよ。霊がついてくるからね」
それっきり、怖くなってもう二度とそんな遊びはしなかった。
中一のとき、祖父の葬式で彼女と再会した。今度は「苦労するよ。でもおばあちゃんが守ってくれてる。あんたの父親もね、同じように苦労人だったけど、お母さん──つまり、あんたのおばあちゃんのおかげで今はなんとかやれてる」
亡くなった祖母は、僕が幼いころに逝ってしまったが、よく可愛がってくれていたらしい。
そして三度目は祖父の法事のとき。彼女と目が合い、逃げようとしたけれど、何故か足が止まった。
「元気?」
初めて、そんな普通の言葉を彼女からかけられて、少し驚いた。
「霊能者なんですって?」と、思い切って訊いた。
「頼まれたときだけね。基本的には、自分からは言わない。あんたは特別だけど」
特別。あまり嬉しくはない響きだった。
「霊ってどんな感じなんですか?」
「いろいろ。でも、結局は人間の思念の残り。個人の何かの思いが強すぎて、形になっちゃったのが霊なのよ。ただね……時々とんでもないのがある。私じゃどうにもできないやつ」
そうして語られた一つの体験談──
みちかさんが呼ばれたのは、北海道のある町に住む十四歳の少年の家。胸が苦しいと訴え、病院では原因不明とされた少年だった。家は赤い三角屋根の、ごく普通の住宅。
ところが家に入った瞬間、みちかさんは圧迫感に襲われた。空気が重く、胸が締めつけられるようだったという。
「少年の部屋に入ると、黒い影が胸に覆いかぶさってたの。よく見たら、それが父親の顔だったのよ。母親に事情を聞いたら、少年は連れ子で、その父親とは血のつながりがない。再婚して二年。ちょうどその頃から症状が出始めたんだって」
生霊。彼女にとっても初めての経験だった。
「急にその影が私を睨んでね、胸を両手でグーッて……本当に息できなくなって。外に出してって言って、ようやく呼吸が戻った」
除霊はできなかった。家庭を壊すわけにはいかないと判断したらしい。
それでも、その後夫婦は離婚し、少年の胸の痛みも不思議と消えたという。
一番ぞっとしたのは、その直後に知人から聞いた話だった。
「玄関まで私を連れて行ったその知人が、戻るときに父親を見たんだって。居間で正座して、目を見開いて、机を叩きながら……こっちを睨んでたんだって。無言で。あれはね、生半可な霊より怖いよ」
……そんな話の後、ある日田中さん(仮名)の家を訪れた帰りに、みちかさんがぽつりと呟いた。
「あの家、空気がよどんでるね」
そのときは何の違和感もなかった。でも、後から娘が問題を起こし、夫婦仲が険悪になり、最終的に離婚話まで出たと知ったとき、僕は背中が冷たくなった。
彼女が事前に知るはずはなかったのだ。親戚づきあいから少し距離を置かれていた彼女は、情報源は僕の両親だけだった。
「時々心配になる。あんたは境界にいるから。いろんな意味で」
境界──その言葉の意味は、いまだにはっきりとしない。
そんな彼女の話を、僕はなぜか聞き続けてしまう。霊の話が好きなわけじゃない。ただ、彼女の語るものには、何か底知れぬものがあった。
そして、もう一つの話──
団地に一人で暮らす老婆。毎晩、誰かに焼かれる夢を見るという。原因は不明。昼間に行っても何も感じられず、夜まで待った。
「何か、隠してると思った。だから訊いたの。『おばあちゃん、昔火事起こしてない?』って。そしたら、泣き崩れちゃって……」
夜中一時、近所に騒がれ、結局その日は中止となった。
翌朝、彼女のもとに一本の電話が入る。
「亡くなってたって。夢のとおりよ。ドアを叩く格好で、燃えながら倒れたんだって。助けを求めながら、隣人の足首をつかんで『あんたのせい……よ……』って」
その隣人にはやけどが残ったという。
「多分ね、自分のせいだって、ずっと思い続けてたんだろうね。誰にも言えずに。だから、夢の中で誰かに焼かれたのも、自分自身の責めだったんだよ」
「でもなんで、他人に『あんたのせい』って言ったんです?」
「自分の中の責めの言葉が、最期に出ただけよ。たまたま隣にいただけ。そういうもんなの。霊って、いつも他人を呪うものとは限らない。自己暗示の塊だったりもするから」
それが、妙に腑に落ちた。
人は、自分の中に火種を持っている。燃やすのも焼かれるのも、自分自身なのかもしれない。
あのとき、みちかさんがふと言った言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「……あんたは境界にいるからね」
今も、その言葉の意味を僕は掴めないままでいる。
[出典:947 :みちかさん:04/02/07 07:29]