先週の土曜日のことだ。
この話を誰かにうまく伝えられる自信はない。うまく文章にできる気もしない。でも、胸の奥を圧迫するようなこの感覚を、どこかに吐き出しておかないと、自分がどうにかなってしまいそうで。
朝七時。まだ空はくすんだ灰色をしていた。彼氏の車に乗り込み、隣に彼氏、その後部座席に彼の同僚の仲宗根と、その彼女の美樹。四人で出かける。行き先は……廃墟。
もともと私も美樹も幽霊なんて見たくないし、肝試し的なことも好きじゃない。でも、彼氏と仲宗根は廃墟巡りが趣味で、そのうちの一つに「安全そうな場所」があると仲宗根が言った。経営不振で半年で潰れたガラス製品会社の工場。事故も事件もない。経営者は今も元気で、曰くつきの噂もない。山奥にあって暴走族の溜まり場にもならない。仲宗根の親戚が働いていたという話まである。
山道に入ると、割れたアスファルトからタケノコが突き出し、草木が道路を覆い隠すように伸びていた。仲宗根は得意げに草刈り機まで持ってきていたが、それを使うほどでもなく、車はゆっくりと進んだ。
最後に見た人の気配は、工場へ入る十分前のお寺と畑まで。それを過ぎると、自販機が一台ぽつんとあるだけ。やがて高い塀に囲まれた巨大な門が見えた。木のパレットで塞がれていて、車では入れない。
門を越えて中に足を踏み入れると、草木に飲み込まれた隅の方と違い、中央の建物は妙に整っていた。ガラスは一枚も割れておらず、埃を被っただけの、休校中の学校のような静けさ。
「とりあえず一周して入れるとこ探そう」彼氏がそう言い、みんなで建物の周囲を歩いた。
……そして、それは現れた。
最初、前方の影が人に見えたとき、心臓が冷たくなった。お化けだと思ったのだ。だが近づくと、それはどこにでもいるようなおばさんで、買い物帰りのような格好をしていた。私たちに会釈し、通り過ぎていった。
それからも、人は現れた。ハーフパンツ姿の中年男、子連れの母親、スウェット姿の若い女……。みな、あまりに普通すぎた。場違いなのは、長袖軍手で歩き回る私たちのほうだった。
「ここ、廃墟じゃないの?」私が小声で言うと、仲宗根は「ずっと使ってないって話は親戚から聞いたことだし、生きてる施設かもしれない。あの人たちがどこから出てくるか見よう」と言った。
しばらくついて行くと、事務所のような小さな建物に辿り着いた。人々はそのドアから出てくる。開けてみると……室内には事務机ひとつ、埃だらけの床、壁際に絡まったケーブル。窓はあるが、どこにも続かない。
美樹が、震える声で「帰ろう、やだ」と言った。
「足跡が……ないよ」
床を見下ろすと、美樹が歩いた跡以外、何も残っていなかった。
さっきまでここから人が出てきていたのに、足跡がひとつも。
胸の奥に冷たい塊が落ちた。誰も何も言わず、私たちは部屋を出た。
……ガチャリ。背後でドアが開いた。振り返ると、人が一人、中から出てきた。
頭が真っ白になり、美樹が叫び声を上げて走り出した。私たちも追いかける。
しかし、追い抜いていく人々が増えていく。肩がぶつかり、睨まれる。気づけば工場内は何十人もの人で埋め尽くされていた。全員、普通の顔、普通の服装、普通の歩き方……ただ、ここにいるはずのない普通さ。
門を越え、車に乗り込み、発進しても、道は人であふれていた。ふらふらと歩く人の波。クラクションを鳴らしても、ただこちらを一瞥するだけ。何十、何百という人の間を、車はゆっくりと下っていく。
彼氏と仲宗根が罵り合う声が耳の奥で遠のいていく。美樹が「お寺!さっきのお寺!」と叫び、二人は車を飛び出して走って行った。
私は後部座席で過呼吸になり、目を閉じていた。しばらくして車が国道に出たらしく、目を開けると見覚えのある景色。雨が降っていた。さっきまでの異様な人波は消え、ただ静かな山道が残っていた。
ファミレスに入り、美樹に電話をかけたが、応答はなかった。「迎えに行くから連絡して」とメールを送り、そのまま夜になった。
翌日、二人の家を訪ねたが、まだ帰っていない。仲宗根は会社を欠勤している。美樹も行方不明だ。
あの時、彼らはお寺に辿り着けたのだろうか。
それとも……あの人波の中に、溶けていったのだろうか。
私の耳には、今もドアの開く音がこびりついている。
あの、埃にまみれた部屋の、はずのない音が。
[出典:552: 本当にあった怖い名無し:2011/06/21(火) 21:24:03.81 ID:SHvWLwFC0]