高校二年の春だった。もうすぐ日が落ちる頃、名鉄神宮前の駅から少し離れた道を、自転車で走っていた。
その日、友人の家に泊まる予定だった。熱田神宮の裏手を抜け、車通りの多い大通り沿いを走っていた時のことだった。ふと、音が遠ざかった。車のエンジン音も、タイヤの摩擦音も、背後の風も。耳の奥が詰まったように静かになって、違和感が胸に広がった。
気がつくと、道が変わっていた。いや、そんなはずはないのに、両脇を高い石垣に挟まれた下り坂を走っていた。見覚えのない景色だったが、驚きはしなかった。これが初めてじゃなかったから。
昔から、こういうことが時々ある。時計の針が一瞬止まるような、世界が裏返るような、そんな感覚。だからその時も「またか」と思っただけで、ブレーキをかけることもせず、坂を下り続けた。
坂を下りきると、町に出た。人影のない商店街だった。夕暮れにしては暗すぎて、空は鼠色に沈み、街灯もついていない。シャッターの閉まった店ばかりで、木の看板や紙のポスターが風に揺れていた。どこかで見たことのあるような街並み。だけど、それは地図の中の記憶ではなく、古い映画の中にあったような、そんな質感だった。
瓦屋根の建物が、通りの先に見えた。自転車のペダルをゆっくり漕いで近づくと、入口の上に黒い木の板が掲げられていた。白墨のような色で書かれた文字は、濃くて、くっきりとしていた。
「神宮前駅」
そう書かれていた。
その瞬間、喉が乾いた。頭がじんじんとして、首筋が冷たくなった。目の前の建物は駅だったが、現在の神宮前とは似ても似つかない。全体が木造で、柱の部分に朱色が差してある。電灯は裸電球が二つ、うっすらと灯っているだけだった。
なのに、妙に納得した自分がいた。
「ああ、これは昔の神宮前駅なんだ」
そう思った。不思議なことに、その確信には根拠があったように思う。ただの勘ではない、という感覚。
不意に、足を地面に下ろしてはいけない気がして、ずっと自転車から降りていなかったことに気づいた。身体が自然に判断していたようだった。地面が、ここにあるべきじゃないもののような気がした。触れてはいけないもの。深く考えたくなかった。
駅の中を覗こうとは思わなかった。覗いたら、何かが壊れる気がした。時間か、自分か、あるいはもっと大きな、理のようなものか。
自転車をUターンさせた。なぜか熱田神宮に向かおうと思った。方向も確信もなかったが、「あちら」だという直感があった。
町並みは、いつまでも変わらなかった。走っても走っても、同じような家並み、同じような無人の店、看板、曇った窓。妙に薄い空気。走るほど、視界の端がぼやけていく。
そして、突然だった。何の前触れもなく、光が差した。白くて、冷たい光。夕方ではない、昼でもない、名前のない光だった。
次の瞬間、見慣れた道に戻っていた。熱田神宮の裏手、いつもの舗道に立っていた。自転車のタイヤは止まっていて、息が切れていた。脇の植え込みには見覚えのある看板、目の前の道路には、さっきまでの車の列が音を立てて流れていた。
スマホを取り出した。画面の時間を見て、血の気が引いた。
たった三十分ほどの体感だったのに、二時間が経っていた。
友人からは何度も着信があった。慌てて折り返すと、「事故にでも遭ったかと思った」と怒鳴られた。こっちはとても説明できる状態じゃなかった。駅のこと、街並みのこと、誰に言ったところで信じてはもらえない。
それから何年も経ったが、あの場所の記憶だけは鮮明だ。駅の木の匂い、商店街の埃っぽさ、風の音。全部が、夢だったようで夢じゃない。
今でも、名鉄に乗って神宮前駅を通るとき、目を逸らしてしまう。線路の向こうに、あの昭和の駅舎がうっすらと浮かんで見える気がする。
降りたら戻れない。そんな気がしてならない。
あれは、どこに迷い込んだのだろう。あの世界は、何だったのだろう。
何かが、今も、引っかかっている。駅名の書かれた木の板。あれに使われていた墨の色だけが、なぜか、生きているような艶を持っていた。
あの黒は、まだ乾いていなかった。
[出典:658 :本当にあった怖い名無し:2009/01/21(水) 00:47:08 ID:jm9abuJf0]