学生時代、まだ日々の現実がどこか仮のように思えていた頃の話だ。
秋も深まり、講義帰りの道すがら肌寒さに肩をすぼめるようになっていたある日、不動産屋から連絡が入った。内容は、俺が住んでいたアパートがまさかの二重契約になっていたというものだった。冗談のようだが現実だった。裁判沙汰に発展し、期限内に退去せざるを得ないという事態に陥った。俺に落ち度はなかった。
菓子折りを持った営業が平身低頭で謝りに来て、必ず条件に合う物件を見つけると誓った。ところが、時期が悪かったのか、彼らの努力不足だったのか、期日ぎりぎりになっても適当な部屋が見つからなかった。
ようやく紹介されたのは、どう考えても俺の予算じゃ住めないような、分不相応な賃貸マンションだった。間取りは2K。築年数こそ経っていたが、水回りはリフォームされていて清潔感もあった。不動産屋は「一ヶ月だけだから」と繰り返した。不審に思った俺は事故物件ではないかと尋ねたが、「違います」と即答された。ただし、念を押すように言われたのは「夜中の外出は控えてください」という一言だった。
「治安が悪いって、つまりヤクザでも住んでんのか?」
最初はそう思っていた。だが、入居して数日後、認識は大きく覆された。
まず気づいたのは、自分の住むフロアにだけ、誰も住んでいないということだった。他の階の郵便受けにはチラシやら回覧板が入っていたが、俺の階は俺の部屋だけが埋まっていた。そんな偶然があるかと疑った。
夜になってエレベーターを降りた瞬間、耳にネコの鳴き声が響いた。鳴き声は消火器が収まった非常ボックスの奥から聞こえる。恐る恐る扉を開けたが、何もいない。気味が悪かった。
二、三日に一度、夜中に「ズリ……ズリ……」という音が天井から聞こえた。最初は上の階の生活音かと思っていたが、どうも天井裏を何かが這っているらしかった。
エレベーターから降りると、強烈な視線を感じることがあった。見回しても誰もいない。ある朝目を覚ますと、カーテンの隙間からベランダにスーツ姿の人影が立っているのが見えた。慌ててカーテンを開けると誰もおらず、足元には革靴が揃えて置かれていた。ベランダから下を覗いても人影はない。再び足元を見れば、革靴も消えていた。
昼夜を問わず、ヒールの音が廊下をカツカツと響かせた。姿は見えない。ただ、音だけが歩き回っていた。バスルームに水が張られていたり、異様に濃い香水の匂いが残っていたりすることもあった。
週末の午前三時には、ベチャ……ベチャ……と生臭い足音がマンションの外から這い寄ってくる。それに合わせるように、階段の方から女の甲高い笑い声が聞こえる。「ひっひっひ……」という、気の狂ったような笑い方だった。
電話をしていると、時折混線し、どこかで唸るような声が入り込んでくる。意味はわからない。ただ、不快な気配だけが伝わってきた。
さすがに不動産屋に苦情を入れた。返ってきたのは「深夜に外出しなければ実害は無い」という曖昧な言葉だった。それでも、直接的に何かをされたわけじゃないし……と、自分に言い聞かせて我慢することにした。だが、限界は訪れる。
最初の「本物」が現れたのは、深夜にトイレに立ったときだった。玄関に、老婆がしゃがみこんでいた。オートロックのはずなのに、なぜか中にいた。
「お爺さんを待ってるんです。ここにいますよね」
俺の家には誰もいない。説明しても彼女は頑なにその場を動かない。仕方なく警察を呼んだ。警官が彼女を連れ出した後、ドアを閉めた直後、何度も激しく叩かれ
「お爺さんをかえせーーーー!!」
と絶叫された。開けると、白目を剥いた彼女が警官に取り押さえられていた。その顔が、あまりにも常軌を逸していた。
それから数日後、不動産屋から「新しい物件が見つかった」と連絡が来た。俺は安堵しつつ、荷造りを始めていた。
その日の午後、玄関前で物音がした。開けてみると、小さな段ボール箱が置かれていた。中には、ボロボロの木彫り人形がひとつ。裏には殴り書きで
『幸せになれる人形』
と書かれていた。嫌な感じがしたので、玄関の外に戻しておいた。するとまた、ガサガサと音がする。再び開けると、箱の上に紙切れが乗っていた。
『幸せになれましたか?』
周囲には誰の姿もない。気味が悪かったが、「またか」とため息をつき、荷造りに戻った。
すると、今度はノックの音。無視していたが、執拗に続いた。玄関の前に立ち、ドアに手をかけようとした瞬間、全身に悪寒が走った。
説明ができないが、そこに「何か」異常な気配があった。ドアの向こうを覗くと、痩せ細った若い女が立っていた。髪はボサボサで、手には包帯。その女が、いきなりドアスコープに顔を近づけ、血走った目で覗き込んできた。
「幸せになれたよね?なれたよね?」
俺は後ろにひっくり返った。その後、一時間ほど彼女はドアに貼りつき、同じ言葉を繰り返し続けた。
「幸せになれたよね?」
声がやんでから更に一時間、恐る恐るドアスコープを覗くと、女の姿も、人形の箱も消えていた。
その二日後、ようやく俺はその部屋を後にした。不動産屋に全てを話したが、はっきりしたことは何もわからなかった。
曰く、あのマンションは、二年ほど前から急におかしくなったらしい。それ以前には事故も事件もなかった。だが、ある日を境に、住民が次々と逃げ出すようになった。現在では、俺のように切羽詰まった者に臨時で貸し出す以外、入居募集すらしていない。
深夜の外出を止められた理由も、俺の前に入居した男が、夜中に「何か」に追われて階段から落ち、重傷を負ったからだという。「何か」が何だったのか、本人の証言は支離滅裂で、正体はわからなかったそうだ。
俺は、その後紹介されたアパートで何の問題もなく過ごし、無事卒業も果たした。ある日、例のマンションの前を通りかかると、そこはもう更地で、駐車場になっていた。
あの女が、どこへ消えたのかは知らない。
そして、彼女は――幸せになれたのだろうか。
(了)