先週のことだ。あれが何だったのか、ようやく少し冷静に考えられるようになったので、書いてみる。
登山、というほど大げさなものじゃないが、ウルトラライトの装備で山道を歩くのが最近の趣味になっていた。地元の低山を何度か経験して、少し慣れてきた頃だった。隣県にある中規模の山に、初めて足を伸ばすことにした。
天気予報は「曇りのち晴れ」。ただ、前日にかなり強い雨が降ったらしく、登山道はところどころ濡れていた。滑りやすい岩肌も目立ち、慎重に歩を進める必要があった。登りというよりも、気ままなハイキングのつもりだったから、ペースは最初から遅めに設定していた。
「無理しない、焦らない、マイペース」
それが山ではいちばんのルールだと思っていたし、実際それでこれまでは何の問題もなかった。後ろから人が来ても、さっさと道を譲っていた。自分のリズムを崩さなければ、それでいい。
その日も同じように、途中で何度か小休止を取りながら、じっくりと登っていた。雲が厚く、太陽の位置さえわからない。ガスも出てきて、木々の間を白い霧が這い回る。山というより水の中を歩いているような、そんな錯覚を覚えるような天候だった。
そして、あるときふと振り返ると――数メートル後ろに、白いチューリップハットをかぶった中年の女が、うつむいたままこちらに向かって歩いてきていた。
年齢は五十代くらいだろうか。上下白っぽいウェアに、ザックも小さめの軽装。特に怪しい格好ではなかった。なのに、背筋がすっと冷たくなった。なぜかは分からない。ただ、あの人に追いつかれてはいけない、抜かれてはいけない……そんな衝動が、心の奥から突き上げてきた。
登山というより、逃げているような足取りになった。意識して早足になり、先を急いだ。木の根がむき出しの道を、時折後ろを確認しながら登った。
でも、あの女は、ずっと一定の距離を保って追ってくる。
どんなに足を速めても、声をかけられるほどには近づかない。かといって視界から消えるほど離れることもない。
やがて林の奥で、道をふさぐように倒木が現れた。雨で濡れて、幹は黒光りしていた。ちょうどそのとき、足元の岩に滑って盛大に尻もちをついた。左の腰を打ったが、大した痛みではない。
それよりも振り返ることが怖かった。
……だが、思いきって後ろを見た。
誰もいなかった。
真っ白な霧の中に、人の姿はなかった。数秒前まで、すぐそこにいたはずなのに。
まさか、道をそれた? 自分のことを追っていたのではなかった? いや、そんなはずはない。振り向くたび、まっすぐこっちに向かってきていた。あの感じは忘れようがない。
霧が流れた瞬間、目の前の道が途切れているのが見えた。
ガケだった。
言葉も出ず、地面に手をついて崩れ落ちた。
あと二歩、いや一歩前に進んでいたら、きっとそのまま落ちていた。
体勢を立て直す間もなく、真下へ。
頭が真っ白になった。呼吸を忘れていた。
これはまずい。冷静になって、引き返そうと決めた。たしかに途中に分岐があったはずだ。今なら間に合う。
百メートルほど戻ると、そこにロープが地面に垂れていた。通行禁止の印だった。気づかなかった。あの女が現れた直後に通過した場所だった。
ああ、気を取られていたんだ。
変な話だけど、それが妙に納得できた。女はたぶん、あのとき正しい道へ進んだのだろう。俺だけが勘違いして、通ってはいけないほうへ足を踏み入れた。
雨が強くなってきた。顔に冷たいしぶきが当たる。歩を進め、ようやく小屋にたどり着いた。掘っ立て小屋だが、屋根と壁があるだけで天国に思える。軒下に腰を下ろしていると、中から誰かが声をかけてくれた。
中には六人ほどの登山者がいた。皆、静かに食事をとったり、雨具を乾かしたりしていた。
「この天気じゃ今日はきびしいですね」
そんな世間話がぽつりぽつりと続く。
俺は気になっていたことを聞いた。
「白い帽子の女性、さっきここを通っていませんでしたか?」
全員の顔が、ぽかんとした表情に変わった。
「女の人?」
一人が言った。「いや、誰も見てないな」
「さっきまで俺のすぐ後ろを歩いてたんです。十五分くらいしか離れてなかったと思うんですが……」
「この一時間、ここにいたけど誰も来とらんよ」
頭がぼうっとしてきた。登ってきていたのに、誰にも会わない?引き返したなら、俺とすれ違うはずだ。
じゃあ、あの女は……
自分を、どこへ連れて行こうとしていた?
喉の奥が急に乾いたような感じがして、水を口に含んだ。震えが止まらなかった。
登頂はあきらめて、下山することにした。雨具を着て、慎重に歩いた。途中、何度も、後ろを振り返りたくなった。でも、怖くてできなかった。
道の途中、登山口にあった神社が目に入った。鳥居の奥に、濡れた石段。苔むした狛犬。
ふと、思った。
あのとき転んだのは、助けられたのかもしれない。
自分の中の何かが、あのまま進んではいけないと、そう叫んでいた。あれは、警告だった。
白い女は、おそらく、俺の方を見ていたのではなく、俺の先にある何かを見ていたのだ。あの谷底に潜むものを。
もしくは……誰かを、そこへ連れていくために。
いずれにせよ、もうあの山へ登ることはない。
[出典:2012/08/11(土) 16:06:01.82 ID:/ycauDX60]