先週のことだ。あれが何だったのか、まだ断定はできない。
ただ、あの山にもう一度足を踏み入れる気はない。それだけははっきりしている。
ウルトラライト装備で低山を歩くのが、ここ半年ほどの習慣だった。距離も標高差も大したことはない。地図を見れば半日で往復できる。危険というより、気分転換に近い。
隣県の中規模の山に目を向けたのは、少し慣れたつもりになっていたからだろう。天気は曇りのち晴れ。ただ前日の豪雨で、登山道はぬかるみ、岩は濡れて黒く光っていた。霧が低く垂れこめ、視界は常に白く曇っている。尾根に出るはずの場所でも、景色はほとんど開けなかった。
焦らない、無理をしない。それが自分のルールだった。後ろから来る人がいれば譲る。ペースは崩さない。それで事故は防げると信じていた。
異変は、振り返ったときに始まった。
数メートル後ろに、白いチューリップハットをかぶった女がいた。五十代くらい。上下白に近いウェア。小ぶりのザック。どこにでもいる日帰り登山者の装いだ。
ただ、視線を上げない。顔を伏せたまま、一定の歩幅でこちらへ向かってくる。
なぜか分からないが、抜かれてはいけないと思った。道を譲る、といういつもの判断ができなかった。むしろ、距離を詰められてはいけないと体が拒否した。
足を速める。呼吸が荒くなる。後ろを確認する。
女は、同じ距離を保っていた。
近づきもしない。離れもしない。霧の中で、白い帽子だけが揺れている。
やがて、道を横切る倒木が現れた。濡れた幹を跨ごうとした瞬間、足元の岩で滑り、尻もちをついた。腰を打ったが、痛みよりも先に、振り返ることへの恐怖が湧いた。
それでも確認した。
誰もいない。
霧だけが流れている。足音も、枝を踏む音もない。さっきまで確かに見えていた白が、どこにもなかった。
胸騒ぎを覚えたまま立ち上がる。数歩進んだところで、霧が一瞬だけ薄くなった。
道がなかった。
足元の土が急に切れ落ちている。細い踏み跡は、そのまま崖の縁で途切れていた。あと一歩踏み出していれば、体は空中に出ていたはずだ。
膝から力が抜けた。
引き返す。来た道を百メートルほど戻ったところで、地面に垂れたロープに気づいた。簡易の通行止めだ。脇の木に結ばれている。目立つ位置にあるのに、なぜか記憶にない。
女を見てから、視界が狭くなっていた。
そう考えれば説明はつく。注意が逸れ、立入禁止の先へ入り込んだ。それだけのことだ。
だが、小屋に着いてから、その説明は崩れた。
雨宿りしていた六人の登山者に尋ねた。「白い帽子の女性を見ませんでしたか」と。全員が首を振った。
「この一時間、ここにいるが誰も来ていない」
女が引き返したなら、途中で自分とすれ違うはずだ。先に小屋へ着いたなら、ここにいるはずだ。だが、どちらでもない。
下山を決め、雨具を着る。歩き出すと、妙な感覚に気づいた。
背後に、誰かがいる気配がする。
振り返らないと決めた。確認した瞬間に、何かが終わる気がしたからだ。
登山口近くの神社を横切る。濡れた石段の脇、苔むした狛犬の足元に、白い布切れが落ちていた。帽子の縁に見えなくもない形。
手を伸ばしかけて、やめた。
あのとき転ばなければ、自分は落ちていたかもしれない。だが、転ばなければ、そもそもあの女を振り返ることもなかった。
どちらが先だったのか。
白い女が警告だったのか、それとも誘導だったのか。
いまでも確信はない。ただ一つ言えるのは、あの山では、一定の距離を保ったまま近づいてくるものがいるということだ。
追いつかない。消えもしない。
そして、道が途切れる場所まで、静かに導く。
あの山に、もう登ることはない。
[出典:2012/08/11(土) 16:06:01.82 ID:/ycauDX60]