あれは、真夏の夜のことだった。
仕事中、机の上に伏せていた携帯が震えた。画面には「村上」と出ていた。
声を聞くのは一年ぶりだった。大学を出てからは年に何度か会う程度になり、そのうち連絡も途切れていた。別の友人から、村上が精神を病んで実家に戻ったと聞いていたので、こちらから電話をかけることもなくなっていた。
出ると、しばらく返事がなかった。
「もしもし」
もう一度呼びかけると、受話口の向こうで乾いた笑い声がした。
「……ちょっと相談があってさ」
それだけだった。
声は村上のものに聞こえた。ただ、妙に遠かった。外にいるのか、建物の中にいるのかもわからない。風の音のようなものが混じっていたが、電話越しの雑音と言われればそれまでだった。
仕事が終わったら駅前で会うことにした。
その日は、なぜか業務が長引いた。普段なら十分で片づく確認が何度も差し戻され、上司に呼び止められ、時計を見るたびに約束の時間から遠ざかっていった。退社した時には、もう三十分以上過ぎていた。
慌てて村上に電話をかけた。
呼び出し音は鳴る。だが、出ない。
駅前の広場まで走ったが、村上の姿はなかった。改札前、交番の横、喫煙所、自販機の並ぶ壁際まで見た。どこにもいない。
腹が空いていたので、近くのラーメン屋に入った。注文を済ませ、水を一口飲んだところで携帯が鳴った。画面にはまた「村上」と出ていた。
「悪い。仕事が長引いた。今、駅前にいる」
そう言うと、受話口の向こうで少し間があった。
「いや……待ってたんだけど」
声が湿っていた。
「駅前だろ。改札の前」
「いたよ」
「いなかったぞ」
「いたよ。ずっと」
その言い方に腹が立った。だが、怒鳴るほどのことでもない。待ち合わせ場所を勘違いしたのかと思い、何度か確認したが、場所は合っている。時間も合っている。なのに会えていない。
村上は少し黙ってから、「じゃ、家の方に行くから」と言った。
「今から? 無理だ。終電に間に合わない」
「少しでいいんだ」
「明日の夜にしよう。ちゃんと行くから」
また沈黙があった。
その沈黙の奥で、ぽちゃん、と水が落ちるような音がした気がした。
「……わかった」
電話はそこで切れた。
その夜、二時過ぎに固定電話が鳴った。
携帯ではない。部屋の隅に置いた、ほとんど使っていない固定電話だった。実家から引っ越した時に回線だけ残していたが、知人でその番号を知っている者はほとんどいない。
眠りかけていたので、最初は夢の中の音だと思った。だが、鳴り止まない。しつこいほど鳴る。
起き上がって受話器を取った。
「もしもし」
返事はなかった。
「どちらさまですか」
ザー、ザー、と雨のような音が聞こえた。外は晴れていた。夏の夜の空気が窓の向こうで静かに沈んでいる。
その雑音の下に、誰かの声が混じっていた。女の声に聞こえた。近いのか遠いのかもわからない。喉の奥だけで何かを言っているような、息だけが言葉の形を取ろうとしているような声だった。
聞き取ろうとして、耳を受話器に押し当てた。
その瞬間、はっきりと水の音がした。
ぽちゃん。
受話器の中ではなく、部屋のどこかで鳴った。
思わず振り返ったが、何もない。台所も、廊下も、玄関も暗いままだった。
「村上か?」
そう言った途端、電話は切れた。
受話器を戻しても、しばらく耳の奥に雨音が残っていた。いたずらだと思おうとした。間違い電話だとも思おうとした。だが、眠れない。布団に戻って目を閉じても、あの水の音だけが部屋のどこかに残っている気がした。
三十分ほど経った頃だと思う。
廊下の奥から、何かを引きずる音が聞こえた。
ずる。
間を置いて、また。
ずる。
重いものを引いているというより、濡れた布が床に張りついて、それを無理に動かしているような音だった。その合間に、ぽちゃん、ぽちゃん、と水が落ちる。
アパートの二階だった。隣の部屋の音なら、もっと壁越しに響く。だが、それは明らかに自分の部屋の中、玄関から廊下を通ってこちらへ近づいてくる音だった。
布団の中で息を止めた。
音は部屋の前で止まった。
そこからが長かった。
何かがいる、と思った。ドアの向こうではなく、部屋の前ではなく、もう部屋の中にいるのではないかと思った。けれど目を開けることができなかった。
やがて、耳のすぐそばで、ぽちゃん、と水が落ちた。
反射的に起き上がった。枕元のスタンドには手が届かなかった。代わりに、台所の蛍光灯の紐を引いた。部屋が白くなる。安い蛍光灯の光が一瞬だけちらつき、壁と床を青白く照らした。
何もいない。
そう思った直後、視界の端に鏡が入った。
姿見の前に、女が立っていた。
正確には、鏡の中にだけ映っていた。
膝丈の赤いスカート。白い足。けれど、すねから下がない。床に立っているはずなのに、足首も爪先もなく、白い脚が途中で途切れている。
上半身は暗くてよく見えなかった。長い髪が肩と背中に濡れたように張りついていた。両腕はだらりと下がっている。少し足を開いた姿勢で、鏡の中の女は背中を向けていた。
こちらを見ていない。
それなのに、見られていると思った。
その矛盾が一番怖かった。

顔は見えない。目もない。口もない。ただ背中だけが映っている。だが、その背中がこちらを意識しているとしか思えない。部屋の空気が急に重くなり、喉の奥が塞がった。
声を出そうとしても出なかった。立とうとしても体が動かない。女も動かない。鏡の前に立ったまま、こちらに背中を向けている。
その時、窓を軽く叩く音がした。
コン、コン。
二階の窓だった。
ありえない、と思った瞬間、外に人影が見えた。人影は窓の前から離れ、ベランダのない外壁を歩くように横へ動いた。いや、歩いたのではない。影だけが流れるように遠ざかった。
思わずそちらを見てしまった。
すぐに鏡へ視線を戻した。
女はいなかった。
体が動くようになり、腰が抜けた。朝まで明かりを消せなかった。布団にも戻れなかった。玄関の方を見ることも、鏡を見ることもできず、台所の床に座ったまま夜が明けるのを待った。
翌日、仕事は休んだ。
昼過ぎになって、村上との約束を思い出した。昨日の電話が気になり、携帯からかけた。何度か呼び出したあと、知らない男が出た。
村上の父親だった。
名乗ると、電話の向こうで息を呑む気配がした。
「村上は……今朝、亡くなりました」
言葉が出なかった。
父親の話では、村上は深夜に一度外へ出たらしい。明け方近くに戻り、そのあと自室で倒れているのを家族が見つけたという。詳しいことは濁された。ただ、電話越しでも、家の中がひどくざわついているのがわかった。
私は、昨日の夜に村上から相談の電話があったことを伝えた。
父親はしばらく黙っていた。
「昨日の夜は、本人はほとんど話せる状態ではありませんでした」
それだけ言った。
行くべきではなかったのだと思う。
それでも行った。村上の実家は電車とバスを乗り継いだ住宅地にあった。玄関先には近所の人らしい姿がいくつかあり、家の中は線香の匂いと、消しきれていない生臭さのようなものが混じっていた。
村上の母親は、私の顔を見るなり泣き出した。私は何を言えばいいかわからず、ただ頭を下げた。
村上はずいぶん前から、何かに怯えていたらしい。家族にはほとんど話さなかった。ただ夜になると部屋の電気をすべてつけ、鏡を布で覆い、テレビの画面にもタオルをかけていたという。
「何か映るのか」と父親が聞いたことがある。
村上は「映ってるんじゃない」と答えたそうだ。
「向こうが見てる」
それ以上は話さなかった。
帰る前、私はトイレを借りた。廊下を戻る途中、ふすまが少し開いた部屋があった。そこが村上の部屋だとすぐわかった。見てはいけないと思ったが、足が止まった。
畳に黒ずんだ染みが残っていた。布団が寄せられ、壁際の棚が倒れ、部屋は荒れていた。テレビが一台、畳の上に置かれていた。電源は入っていない。黒い画面だけが、部屋の中をぼんやり映していた。
そこに、赤いスカートの後ろ姿が映っていた。
声が出なかった。
テレビの前には何もいない。私の立っている位置とも合わない。画面の中の女は、部屋の奥を向いて立っているように見えた。こちらではない。テレビの向こう側にある何かを覗き込むように、じっと動かずに背中を向けている。
その背中の向こうに、村上の部屋ではない暗がりがあった。
逃げるように応接間へ戻った。村上の家族が不審そうに私を見たが、何も言えなかった。
葬式の日、古い友人たちで集まった。
誰も大きな声を出さなかった。酒は進んでいるのに、場は妙に冷めていた。村上の話をしようとしても、すぐに黙ってしまう。笑い話にできるほど昔ではなく、悲しみだけで済ませられるほど単純でもなかった。
その中で、宮沢がぽつりと言った。
「村上、前から変なこと言ってたんだよ」
宮沢は村上と一番親しかった。実家に戻ってからも何度か会っていたらしい。
「女がいるって言ってた。自分の後ろじゃなくて、反射するものの中にいるって。鏡とか、窓とか、消したテレビとか。見えるのはいつも後ろ姿で、こっちを向かないって」
私は黙って聞いていた。
「でも、村上は言ってた。あれは俺を見てるんじゃないって」
グラスを持つ宮沢の手が少し震えていた。
「俺の後ろを見てるんだって」
その言葉を聞いた時、背中が冷えた。
私は、自分が見たものを話した。鏡の前にいた女。村上の部屋のテレビに映っていた赤いスカート。窓を叩いた音。水の音。
宮沢は顔色を変えた。
「俺も見た。ファミレスで」
村上と夜通し話していた時、入口のガラスに女が映っていたという。店内にいるはずなのに、振り返っても誰もいない。ガラスには、赤いスカートの女の後ろ姿だけがずっと映っていた。村上はその間、一度も入口を見なかった。
「あいつ、見たらだめだって言ってた。顔じゃなくて、背中を見るなって」
「背中?」
「背中が向いてる場所に、こっちも入るからって」
誰も意味を聞き返さなかった。
その時、宮沢が壁を見た。
「おい」
居酒屋の壁には、天井の照明で私たちの影がぼんやり映っていた。肩、頭、腕。椅子の背。テーブルの形。
その中に一つだけ、輪郭のはっきりした影があった。
長い髪。膝丈のスカート。肩幅ほどに開いた脚。
女の影だった。
私たちの誰の影でもない。だが、壁の上では、確かに私たちと同じ席に立っていた。こちらを向いていない。やはり背中を向けている。
その影は、壁の奥を覗き込んでいた。
誰かが椅子を倒した。別の誰かが店員を呼んだ。全員が席を立った瞬間、影は消えた。
それ以来、私は反射するものを長く見られない。
鏡はできるだけ置かない。テレビは使わない時、布をかける。夜の窓にはカーテンを閉める。携帯の黒い画面も、なるべくすぐ点けるようにしている。
ただ、避けようがない時がある。
エレベーターの扉。電車の窓。店のガラス。夜のパソコン画面。
そこに自分の顔が映る前に、私は必ず背後を確認する癖がついた。誰もいないことを確かめる。それから画面を見る。
それでも時々、考える。
あの女は、私たちの背後にいたのではないのかもしれない。
私たちが見たものは、いつも後ろ姿だった。鏡でも、テレビでも、壁の影でも、女は一度もこちらを向かなかった。
なら、あれは何を見ていたのか。
女が背中を向けていた先に、何があったのか。
一度だけ、携帯の画面を消したまま机に置いていたことがある。真っ黒な画面に、部屋の天井と私の手元がぼんやり映っていた。
その奥に、赤い色が見えた。
反射だと思った。そう思おうとした。
画面の中で、赤いスカートの女は、私に背中を向けていた。
だがその時、私はようやく気づいた。
女が見ていた先は、私の部屋ではなかった。
画面を覗き込んでいる、こちら側だった。
(了)