あれは、真夏の夜のことだった。
仕事中に鳴った携帯の画面には「村上」の文字があった。声を聞くのは一年ぶりだ。
受話口から流れ込んできたのは、乾いた笑い声と、「……ちょっと相談があってさ」という曖昧な言葉。
正直、不思議だった。別の友人から、村上は精神を病んで実家で療養中だと聞いていたからだ。
仕事が終わったら、駅前で落ち合うことにした。だが、その日は妙に業務が長引き、約束の時刻をとうに過ぎてしまった。慌てて電話をかけても、何度も呼び出し音だけが響くだけで繋がらない。
仕方なく、待ち合わせ場所まで足を運んだが、そこに村上の姿はなかった。
空腹に負け、近くのラーメン屋で席につき、注文を終えた時、ようやく着信があった。画面にはまた「村上」。
遅れたことを謝ると、受話口の向こうで低く「いや……待ってたんだけど」と、湿った声が返ってきた。
待ち合わせの場所を勘違いしたのかと思ったが、確認しても間違いはない。それなのに村上は「じゃ、家の方に行くから」と言う。
このままでは帰りが終電に間に合わないと説明し、明日の夜に会うことを提案した。彼はしばらく沈黙し、曖昧な声で了承した。
その夜、深夜二時頃。固定電話が鳴った。
寝入りばなを叩き起こされ、苛立ち混じりに「どちらさまですか」と告げる。返答はなく、ボソボソとした声と、ザーザーという雨のような音だけが聞こえる。窓の外は、静まり返った夏の夜だ。
声は女のものに思えた。聞き取れぬ囁きが続いたかと思うと、唐突にツー、ツー……と切れた。
悪質ないたずらだと自分に言い聞かせ、再び眠ろうとする。だが、わずか三十分ほどで目が覚め、寝返りを打っても眠れない。
廊下の奥から、何かを引きずるような音が近づいてきた。
ズル……ズル……という濁った音。さらに、ポチャ……ポチャ……と水滴が落ちるような音が混じる。それらはゆっくりと、確実に部屋の前で止まった。
息を潜め、耳を澄ます。先ほどの電話の不気味さと、この音が頭の中で結びつき、背中を冷たい汗が伝った。
覚悟を決め、台所の電気をつけ、ドアの方へと振り返ろうとした瞬間――視界の端に、部屋の鏡の前に立つ何かが映った。
それは女の後ろ姿だった。
膝丈の赤いスカート。すねから下は、まるで切り取られたように存在しない。肌は異様に白く、細い。上半身は闇に溶け込み、長い髪だけが濡れたように張り付いていた。
肩幅ほどに足を開き、両腕は真っすぐ垂らしたまま。動かない。息もしない。だが、確かにこちらを睨んでいるとしか思えなかった。
金縛りにでもあったように、声も出ず、視線を逸らせない。時間の感覚が溶けていく中、ドアをコンコンと叩く音が響いた。
窓の外に人影が見え、足音が遠ざかる。その瞬間、鏡の中の女から目を離してしまった。慌てて戻すと、そこには何もいなかった。体の拘束が解け、腰が抜けたようにその場に座り込む。
朝まで布団には戻れなかった。仕事は仮病で休み、昼過ぎになって村上のことを思い出す。彼に電話をかけると、出たのは父親らしき男性だった。
「村上は……昨夜、自殺した」
耳が熱くなり、頭の中が真っ白になった。それでも「昨日、相談があった」と告げ、実家へ向かうことを許された。
村上の母親の話では、夜中に外出した彼は明け方に戻り、翌朝には血まみれで倒れていたという。
……あのノックは、村上だったのかもしれない。
帰る前に借りたトイレから応接間に戻る途中、少し開いたふすまの隙間から中を覗いてしまった。床には飛び散った血、荒れ果てた部屋。そしてテレビの画面には、光の反射で部屋が映っている――そこに、あの赤いスカートの後ろ姿があった。
自分の位置と映像が一致しない。不自然な距離感。それでも確かに、あの女だった。
恐怖で息が詰まり、応接間へ駆け戻ると、村上の家族が怪訝そうに見つめた。私は逃げるように家を後にした。
葬式の日、古い友人たちと居酒屋で集まった。村上と一番親しかった宮沢が、奇妙な話をした。
村上はかつて、女に誘われて入水自殺を図ったが途中で逃げ、生き延びた。女はそのまま行方不明になり、二週間後、身元不明の水死体として見つかった。それ以降、村上はおかしくなっていった――。
「……その女、俺も見たかもしれない」
宮沢は言った。ある晩、ファミレスで村上と話していると、入口近くに女が立っていた。明け方までずっと動かず、視線をこちらに向けていたという。
話の最中、宮沢が壁を指差した。「おい、あの影……」
壁には私たちのぼやけた影が映っていた。だが、その中に一つだけ、はっきりと輪郭のある影――長い髪、膝丈のスカート、静止した女の影――があった。
皆が息を呑み、その場から離れた瞬間、影は跡形もなく消えていた。
その後、私と宮沢は霊能者にお祓いを受けた。以来、女を見ることはなくなった。
だが今も、ふと思う。あの女は鏡やテレビで、こちらを見ていたのではない。
私たちが見ていたのは、いつも“後ろ姿”だけだった。――背中を向けて、どこかを覗き込むように。
もしかして、あれは私たちの背後にいたのではないか。
(了)
 
	
	