誰にも知られず、血だけが濃くなっていった。
もう十五年も前の話になる。
それでも、あのとき見た家の窓、扉の軋む音、そして何よりも──彼らの目つきだけは、今でもはっきり脳裏に焼きついている。
きっかけは、取材だった。
大学のドキュメンタリーゼミに在籍していた私は、卒業制作として「閉鎖集落と現代」をテーマに地方の集落を調べていた。その過程で、ひときわ異様な噂を耳にした。
「オッド村には、三代にわたって近親婚を続けた家がある」
──ウィッタカー家。
その名前を口にした瞬間、話していた元地元新聞記者は言葉を詰まらせ、煙草に火をつけたまま天井を見上げ、二度とこちらを見なかった。
それ以上、何も語らなかった。
だが、私はなぜか惹きつけられた。
タブーに触れたいわけでも、他人の不幸を暴きたいわけでもなかった。ただ、その一族の存在が、調査ノートの余白で静かに脈打っているように感じられ、無視できなかった。
だから私は、向かってしまったのだ。
ウエストバージニア州ローリー郡。人口七百人足らずの、地図から零れ落ちそうな村、オッドへと。
*
最初に村を訪れたときの空気は、どこかこの世のものとは思えなかった。
アメリカにいるはずなのに、言葉も、通貨も、空気の密度さえも違っているような感覚。すべてが薄く、しかし確かにずれていた。
店はほとんど廃業しており、通りを歩く人々は皆、無表情だった。「こんにちは」と声をかけても返事はない。ただ、目だけがこちらを見ている。
計算でも、好奇心でもない。ただの凝視。長さも温度もない視線。
村のはずれに、その家はあった。
門はなく、庭にはゴミが雑然と積まれ、アルミ缶が風に転がって錆びた音を立てていた。軒先に、何かがぶら下がっている。洗濯物かと思ったが、違った。近づいてわかった。それは干からびた小動物の死骸だった。
ガサ、と音がした。
家の中から、誰かがこちらを見ていた。老人のようだったが、性別も年齢も判断できない。目が合った瞬間、うう……と低く唸るような声が漏れた。
私は反射的に後ずさった。
その声に呼応するように、家の中から複数の影が飛び出してきた。裸足の者、靴を片方だけ履いた者、服の前後が逆の者。彼らは私を見るなり、子犬のような奇声を発し、蜘蛛の子を散らすように森へ逃げ込んだ。
脚が震え、動けなかった。
手の中のカメラが汗で滑りそうになっていることだけが、やけに現実的だった。
そのとき、背後から声がした。
「動くな」
低い声と同時に、背中へ金属の冷たい感触が押し当てられた。振り向くと、獣のような警戒心を剥き出しにした男が、ショットガンを構えていた。
「お前、あの家に何しに来た」
私は、ドキュメンタリーを作っていること、調査だということ、危害を加えるつもりはないことを、途切れ途切れに説明した。男はしばらく黙り込み、やがて銃口を下げた。
「……あの人らに、あんまり近づかん方がいい」
そう言って、吐き捨てるように続けた。
「あれは人じゃねえ。人のかたちをした、なにかだ」
*
それでも私は、村に通い続けた。
記録を取るためだ。そう自分に言い聞かせていた。
ベティという名の女性が、ウィッタカー家を取りまとめていた。彼女とは、かろうじて会話が通じた。短い言葉を選びながら、「ここにいたい」「家族、だいじ」と繰り返す。
私は写真を撮った。
彼らの生活、表情、意味のわからない仕草。ある瞬間は確かに人間らしく、次の瞬間には、まったく別のものに見える。その揺らぎが、レンズ越しでも消えなかった。
家の修繕を手伝い、必要な物資を運び、滞在時間は次第に長くなった。
彼らは私を拒まなくなった。拒まないことと、受け入れることは違う。その違いを、私は意識的に無視していた。
ある時期を境に、家の中の様子が変わった。
笑顔が増え、服が新しくなり、居間にテレビが置かれた。だが同時に、彼らの目の奥にあった鈍い光が、別の色に変わっていった。濁りでも、澄みでもない。名前を与えられない色。
二〇二四年の春、ラリーが死んだと知らされた。
私は弔問に訪れ、写真を撮った。棺の中の顔は、確かにラリーだった。そう信じた。
数週間後、彼が村で歩いているのを見たという連絡が入った。
悪質な冗談だと思った。だが、複数の証言が一致していた。
再訪した村で、私は彼を見た。
生きていた。以前と同じ歩き方で、同じ場所を行き来していた。
問い詰めても、誰も答えなかった。
ベティだけが笑って、「ごめんね」と言った。それ以上の説明はなかった。
私は村から距離を置いた。
理由を整理しようとしたが、できなかった。ただ、近づくと、自分の輪郭が曖昧になる気がした。
それから長い時間が過ぎた。
ある夜、夢を見た。泥にまみれたウィッタカー家の面々が、一人ずつ私の前に立ち、囁く。
「まだ、足りないよ」
「もっと、ちょうだい」
「あなたの目、好き」
汗びっしょりで目が覚めた。
夢だったのか、そうではなかったのか、判断できなかった。
数年後、再び村を訪れた。
ラリーはそこにいた。ベティは笑い、私の肩に手を置いた。
その瞬間、気づいた。
──あの目だ。
最初に、家の中から私を見ていた、あの目。
ベティの目は、それと完全に同じだった。
何も変わっていなかった。
変わったのは、私の方だったのかもしれない。
私は彼らを、人として見ていた。
理解しようとし、近づこうとし、境界を曖昧にした。
彼らは、人のかたちをした、なにかだったのか。
そう思った瞬間、背筋が凍りついた。
今も、ときどき振り返る。
何かが、ついてきている気がするからだ。
彼らの家族に、もう血縁者が増えることはないのかもしれない。
けれど、それはつまり──外から、新しい血を求め始めるということではないのか。
私の血は、濃くなっていないだろうか。
思考が、あの家に引き寄せられてはいないだろうか。
いや、そんなことはない。
──そう思いたい。
だが、あの夢だけは、まだ終わっていない。
……うう……
……まだ、足りない……
(了)
[ウィッタカー家:ブラッシュアップリライト版/2026年01月04日(日)]