古い畳の部屋に十数人が正座していて、窓はすべて新聞紙で塞がれていた。
裸電球がひとつ、黄色く滲んで揺れていた。線香の甘い煙と、誰かの汗の酸っぱい匂いが混じり、胸に重く沈んでいった。
膝を抱えたまま、私は「もう帰りたい」と心の中で繰り返していた。だが隣に座った年配の女が、無言で私の手を握っていた。爪が食い込むほど強く。離せば怒鳴られるのがわかっていた。
その日、壇上の男が叫んだのは「清められるための献金」だった。額は桁外れで、誰も顔色を変えず財布を差し出していく。私も一万円札を震える指で出すしかなかった。出した瞬間、周囲の視線が私の額を舐めるように動いた。祝福の目だと、言い聞かせるように。
声が合唱のように重なり、同じ言葉を繰り返す。私は口を動かしたふりだけをしていた。頭が痺れ、時間の流れが掴めない。気づけば壇上の男が近づき、私の肩に手を置いていた。硬く冷たい掌。耳元で「まだ足りない」と囁いた。背筋を汗がつたう。
——そして今、私はその時の場面を語っている。会社の休憩室で、同僚たちに笑い話のように。
彼らは沈黙する。私の語りをどう処理すべきか測りかねる顔で。
だが一人だけ、深く頷いた者がいた。「わかるよ」と言い、胸ポケットから折れた財布を取り出した。その中に、私が差し出したはずの札が入っていた。皺の寄り方まで、同じだった。
(了)
解説
舞台は「信仰」を名目にしたシステム。そこでは人々が同じ言葉を繰り返し、同じ行動を取り、同じ札を差し出す。誰も疑わない。
けれど、その行為は単なる儀式ではなく、個々の存在を均質化するプロセスなのだ。札のしわまで同じになるのは、その最終段階を示している。
つまり、「人間を信者に変換する機械」としてのカルト。人はそこで個性を削られ、財布の中身にまでコピーが走る。
ここで描かれるのは、オカルトではなくシステムの論理。狂信とは人を複製するアルゴリズムの一種にすぎないのだ。