1934年(昭和九年)三月十九日午前時過ぎ、福井県武生町(現・越前市)にある双竜寺(仮名)で火災が発生。
火のまわりが早く、不動堂とそこにつながる廊下を残して焼け落ちた。
駆けつけた巡査は、この寺の住職とその家族が見当たらないので、近所の家や檀家を探しまわったが、どこにも立ち寄ってはいなかった。
最後に寺の門前に住む桶職人・清助(仮名・当時五十八歳)という男の家を訪ねた。
「清助さん、お寺の住職があんたのところに来ていないか」
「ああ、住職なら少し前『警察に行く』と言って家の前を通りました」
この証言を聞いた巡査は現場に戻って、そのことを司法主任に報告した。
やがて焼け跡から、遺体が次々と発見される。
女中部屋の遺体はほとんど焼けておらず、布団を着たまま死んでいた。
手首と後頭部には深い切り傷がある。
寺からは最終的に六体の遺体が発見され、いずれも煙を吸い込んだ跡がなく、炎があがる前に死んでいたことがわかった。
双竜寺には住職(四十二歳)、妻(四十歳)、長女(養女十八歳)、二女(八歳)、三女(六歳)、女中・睦子(仮名・二十三歳)、番僧(五十八歳)の七人が生活していたが、番僧だけが見当たらなかった。
このため番僧の捜索が開始されたが、王子保村(現・越前市)で托鉢して歩いているところを発見され、連行された。
焼けた本堂を見た番僧は、腰を抜かしてその場に座りこみ、泣き出した。
番僧については、騒ぎの最中は托鉢していたという完全なアリバイがあるため、最初の容疑者は捜査線上から外れることとなった。
住職一家は特に恨まれるようなことは見当たらず、一家心中をする理由としても、妻が結核で寝こんでいること以外には思い当たることがなかった。
刑事たちは、「何か事件解決につながるものを」と焼け跡を探し回ると、一部焼け残った女中睦子さんの柳行李の中に手紙の束があるのを発見した。
これらの手紙はすべて恋文であり、異なった三人の男から来たものである。
差出人からバス運転手の男、睦子さんの故郷で漁師をしている男の二人の名前が浮上したが、もう一つは差出人の名前のところが破れていてわからない。
筆跡などから老いた人物であるらしかった。
まず運転手の男が武生署に呼び出され、睦子さんとの関係を聞かれた。
恋仲であったことは認めたが、気の多い睦子さんとは結婚する意志がなく、また事件当時は実家にいたというアリバイがあった。
次に呼び出した漁師にしても同様だった。
そして残る最後の差出人は誰か……、ということになのたが、その人物をつきとめることができないまま、時間が経過した。
それから何日かした後、火災直後に現場に駆けつけた巡査は、あることを思い出した。
門前に住む清助の証言である。
彼は「住職は家の前を通って警察に行った」と話していたが、どう見ても住職は外に飛び出した形跡はなく、それを清助が見る訳もない。
清助はすぐさま連行されたが、取り調べに対してあくまで否認した。
ところが留置場での様子がおかしい。
「うわっ、助けてくれ!出してください!出してください!」
看守が駆け寄ると、清助は「お騒がせしました」などと言うだけだったが、そういったことが何度か続いた。
仕方なく留置場から出して、巡査部長が話を聞くと、
「悪いことを致しました。申し訳ありません。いま双竜寺の六人が血だらけの姿で留置場へ来て、行く所へ行けず迷っている。お前の来るのを寺の門のところに待っているといいますので、恐ろしくてなりません。全部申し上げますから許して下さい」
と言って、手を合わせ、蒼ざめた顔で六人を殺害したことを自白した。
清助は寺の前に住んでいるということもあって、住職一家とは親しくしていた。
妻とは死別した後は、女遊びをよくして、好色という評判がたったりした。
犯行の動機はやはり睦子さんとの痴情関係である。
この春から同寺に雇われた睦子さんと清助が初めて接触したのは、二月十五日の『涅槃の日』である。
釈迦の入滅を祭るこの日、寺ではねはん団子を信徒にふるまうのが恒例だった。
清助も孫をつれて団子を貰いに行き、初めて話をしたという。
話というのも、「団子もおいしそうやが、あんたのお尻も、なおおいしそうやな」という軽口だった。
睦子さんもまた、冗談にかわして本堂の方に行った。
睦子さんは特に美人というタイプではないが、男好きのするところがあったらしい。
冗談の通じる気さくな性格も窺える。
清助はこれ以後睦子さんに夢中になった。
事件の半月ほど前の夜、銭湯から帰ろうと表戸を開けた清助は、ちょうど入れ違いに女湯の戸に入ろうとする睦子さんと出くわした。
清助は話しかけようとしたが、聞こえなかったのか、睦子さんはそのまま入っていった。
清助はまっすぐ自宅には戻らず、寺の門の内側の六地蔵の陰に潜んでいた。
睦子さんが帰るのを待っていたのである。
三十分ほどして、カラコロと下駄の音をさせて睦子さんが寺に帰ってきた。
暗闇から清助が呼びかけると、睦子さんは一瞬ギョッとしたが、すぐに清助ということに気づいた。
清助は彼女の手を握ったが、「何するの、いやらしい!」とすぐに手を払われた。
それでも動じない清助は、睦子さんの手を引き、鐘桜の板囲いの中に連れこむ。
ここで関係を持った二人は、これ以後、寺の門で落ち合い、清助の家の離れで関係を続けた。
それでも会えない時は、手紙を出して催促していた。
事件当日、この日も清助は彼女に会おうとしたが、睦子さんに「客が来るので都合が悪い。明日の晩に行く」と断られた。
だが清助は待ちきれず、夜十時半頃に足を忍ばせて寺に入ると、話し声などはしなかった。
「もうお客は帰ったのだろう」と女中部屋の戸を開けようとすると、部屋の中に睦子さんの他にもう一人いるのが見えた。
顔はよく見えないが、とにかく一緒の布団で寝ている。
睦子さんが自分の他に男と関係を持っていることは明らかだった。
これに逆上した清助は、すぐさま自宅に舞い戻り、出刃包丁を手にとって、双竜寺に引き返した。
「睦子、ちょっと出て来い!」
窓の外から清助が呼びかけると、窓が開いて、
「おっさん、なんか用か」
と睦子さんが顔を出した。
女中部屋にはもう男はおらず、清助は窓からあがりこんだ。
「今、ここに寝ていた男は誰や」
と清助が言うと、睦子は平気な顔をして答える。
「うちの住職や」
そうした態度に清助はカッとなって怒鳴り始めた。
「わしの他に男を持つと殺すぞ。住職とはすぐ別れてくれ!」
「あんたよりお住職さんの方が先客や、肺病で寝ている奥さんが死んだら、私はこの寺の奥さんになるのや」
それを聞いた清助は、出刃包丁を振り上げて「殺すぞ」と怒鳴ったが、睦子さんから返ってきたのは「男はすぐ殺す、殺すと言うが、殺せるものなら殺してみろ」という言葉だった。
清助は脅すつもりで刃先を彼女の頭から一寸ほどで止めるつもりだったが、頭を庇おうとした彼女の手に刺さり、血が噴出した。
睦子さんは「人殺しっ!」と大声をあげて、転げ回り、清助は彼女の頭を刺した。
寺には怒鳴り声、悲鳴、物音などが響いていた。
住職が女中部屋に駆けつけて来ると、清助は「この住職も生かしてはおけない」と、逃げる住職を引き戻し、頭を刺して殺害。
さらに起き出した長女も殺害した。
その隣室で寝こんでいた住職の奥さんは、布団から這い出して必死に逃げようとしたが、やはり首を刺して殺害。
そして凶行に気づかず、すやすや眠っていた幼い娘二人も殺害した。
清助は女中部屋に戻ってみると、寺の本堂の出口付近に深い傷を負いながらも這い出していた睦子さんが息絶えていた。
清助はその遺体を女中部屋まで運んだ。
大量の返り血を浴びた清助は、井戸で頭から水を被って全身を洗い、台所にあったてんぷら油とマッチを持って本堂に引き返し、八畳間と六畳間に油を撒いて火をつけた。
そして炎が燃え上がるなか、睦子さんの体を抱いて一緒に死のうとしたが、近所の人の「火事やあ!」という声で我に返り、自宅に戻って布団にもぐりこんだ。
以上は、清助の自供によるものだが、清助はその後それを翻し、公判で無罪釈放となっている。
自供を覆したきっかけは、ある日検事局へ向かう途中の看守巡査の一言からだった。
「清助、お前は裁判などするまでもなく死刑に決まっている。そして死刑になれば地獄へまっさかさまだ」
この直後から清助は一切の犯行を否認するようになる。
このため検察側は物的証拠探しが必要になり、現場を再び調べ上げた。
焼け跡からは凶行に使われたと見られる出刃包丁が出たが、三、四丁あり、金沢医大での鑑定の結果、いずれも人血は認められず、証拠にならなかった。
この事件では、真犯人をめぐって当時ライバルだった朝日、毎日の両新聞社の福井支局が対立し、県上層部から記事差し止めの措置がとられた。
このことから、事件については地元で騒がれた程度で、全国的によく知られた事件ではない。
(了)
[出典:http://yabusaka.moo.jp/minagorosi-tera.htm @20150922]