エイジの話を聞いたのは、大学の頃だった。
居酒屋のすみっこで、酔いも手伝ってか、彼はぽつぽつと語りはじめた。妙に生々しく、笑えないほど怖い話だった。
……あれは、ちょうど二年前。
ちょうど、じいちゃんが死んだ頃のことだ。
俺、小さい頃から本当にじいちゃんっ子でさ。親よりもじいちゃんに甘えて育った。山歩きも釣りも、最初に教えてくれたのはじいちゃんだったんだ。
だから、あの日……葬式のときはもう、涙とかじゃなくて、鼻水も出るほど号泣した。二十過ぎの男が、人目もはばからず、わんわん泣くなんて情けない話だけど、それくらい好きだったんだよ。
で、問題は、その初七日の日なんだ。
あの日、すごかったんだ、風が。暴風警報も出ててさ、学校からの帰り道、電車もバスも止まってた。でも俺、交通費もすっからかんで……歩いて帰るしかなかった。
顔がちぎれそうなくらいの風だった。マフラーも飛ばされたし、コンビニのビニール袋が空中を舞ってて、まるでカラスの群れみたいに見えた。なんとか家に着いたのは夜の七時半過ぎ。
玄関に着いて、ポケットから鍵を出して開けた。するとさ……家の中、明るいの。俺の部屋から、ぽうっと電気の明かりが漏れてた。
ヒーターの光も見えた。しかもテレビの音もしてたんだ。
ああ、母さんが気を利かせて、寒いから部屋を暖めといてくれたのかな……と思った。でも、なんかおかしかった。いつもなら「おかえりー」って声がするのに、その日はシン……と静まり返ってて。
靴を見ると、俺のしかなかった。
そのとき思い出した。今日、母さんも父さんも姉貴も、みんな法事の関係で実家に行ってて、俺だけが帰ってくる予定だった。
え……じゃあ、あの電気、誰が?
ゾッとした。でも泥棒って可能性もあるから、ビビりながら、部屋のドアにそっと近づいた。
そして、見たんだ。
俺の部屋の、机の椅子に、誰かが座ってる。背中が見えて、丸まった肩、薄い頭頂部。
あの姿は、間違いようがなかった。
じいちゃん、だった。
もう、心臓がバクバクしてるのに、なぜか涙が出てきて。
怖さより、懐かしさが勝ってたんだ。
「じいちゃん……?」
声に出すと、あの咳払いが聞こえた。ゴホッ、ゴホッ……生前、よく聞いてた癖のある咳。
そしてゆっくり、立ち上がって、振り返った。
その瞬間、なにかがおかしいと感じた。あいつの輪郭が、ぐにゃり……波打ったように歪んでた。
そして顔を見て、凍りついた。
顔一面が、赤インクをぶちまけたみたいに染まってた。赤紫で、目も鼻も口も、境界が分からないくらい滲んでて。
それでも、俺の名を呼んだ。
「お……おお、エイジ、エイジか」
聞きなれた声。けれど、なにかが違った。平坦すぎるんだ。抑揚も、方言も、何もない。機械がしゃべってるみたいだった。
「じいちゃん……うちに帰ってきたのか……?」
すると、あいつは天井を見ながら、ちょっと間をおいて
「お……おお、エイジ、エイジか」
また同じことを、まったく同じトーンで繰り返した。
……そのとき、背筋に氷水を流されたような感覚がした。
腕がおかしい。肩から肘にかけてが異様に長い。そして、肘の位置が……逆。
ポタ……ポタ……と、じゅうたんに音がして、視線を落としたら、赤紫の液体が指先から滴ってた。
ぞっとして、足音を殺して、少しずつ後ずさる。そいつはまだ天井を見ていた。でも――突然、首だけを、ずるんと伸ばしてこっちを向いた。
まるで、ゴムのように首が伸びて、顔が、目の前に迫ってきた。
その顔の口元で、ぶくぶくと泡が立った。
「お……おお、エイジ、エイジか」
三度目だ。もう無理だった。
俺は悲鳴を上げて、ドアを蹴っ飛ばし、家を飛び出した。
近くの本屋まで全速力で走って、九時過ぎ、家族が帰ってくるまで絶対に帰らなかった。
その晩、家族に話しても、誰も真剣に取り合ってくれなかった。
結局、俺はあの部屋で眠ることになった。
布団に入っても、目をつぶれば、すぐにあの赤い顔が思い浮かぶ。目を開けたくても開けたくない。気が狂いそうだった。
それでも、しばらくして眠りに落ちて……そして、夜明け前、顔がかゆくて目が覚めた。
洗面所に行ったら、顔が……べっとりと、赤紫の液体で濡れてた。
もう、心臓が止まるかと思った。
それ以来、俺はあの部屋では眠れない。今もずっと、リビングで寝てる。
あれは、じいちゃんなんかじゃなかった。
言葉では説明できない。でも、絶対に違う。
俺の記憶の中のじいちゃんは、もっと暖かくて、優しくて、方言でしか話せない人だった。
だからあれは、何かがじいちゃんのふりをして、俺の部屋に座っていただけなんだ。
俺は今でも言い切れる。
あいつは、じいちゃんじゃない。
[出典:107:本当にあった怖い名無し:2006/11/23(木)21:06:45ID:R+kCsyBN0]