エイジがその話をしたのは、大学三年の冬だった。
居酒屋の隅、誰も聞いていないはずの席で、やけに周囲を気にしながら語り始めた。酔っているようで、言葉だけは妙に整っていた。
二年前、祖父が死んだ。
エイジは筋金入りの祖父っ子だったという。山も川も、最初に手を引いたのは祖父だった。葬儀では二十を過ぎた男が人目も憚らず泣き崩れた。自分でも制御できないほどの喪失だったらしい。
問題は初七日だ。
その日は暴風警報が出ていた。電車もバスも止まり、財布も空だったエイジは、顔を裂くような風の中を歩いて帰った。七時半を回っていた。
玄関を開けた瞬間、違和感があった。
家の中が明るい。自室のドアの隙間から灯りが漏れ、ヒーターの赤い光が揺れている。テレビの音もする。
だが家族は全員、法事で実家に泊まるはずだった。靴箱の前にあるのは自分の靴だけ。
泥棒かもしれない。そう考え、足音を殺して自室へ近づいた。
ドアの隙間から見えた背中は、見間違えようがなかった。丸まった肩。薄い頭頂部。机の椅子に腰かける小柄な体。
祖父だった。
怖さより先に、懐かしさが込み上げたという。
「じいちゃん」
声をかけると、あの癖のある咳払いが返った。生前と同じ間合いで、同じ音で。
ゆっくりと立ち上がり、振り向く。
そこで、何かが決定的に崩れた。
輪郭が波打っている。焦点が合わない。顔は赤紫に塗り潰され、目も鼻も境界が曖昧だ。それでも口だけが開き、言葉を吐いた。
「お……おお、エイジ、エイジか」
声は祖父のものだったが、抑揚がない。方言も消えている。録音を再生しているような平板さだった。
「帰ってきたのか」
問いかけても、返るのは同じ文句だけ。
「お……おお、エイジ、エイジか」
三度目に聞いたとき、エイジはようやく違和感の正体を見た。
腕が長い。肘が逆に曲がっている。指先から赤紫の液体が落ち、絨毯に吸い込まれていく。天井を見上げたまま、首だけがずるりと伸び、正面から顔が迫った。
口元に泡が立つ。
「お……おお、エイジ、エイジか」
そこで逃げた。
近所の本屋に駆け込み、家族が帰るまで戻らなかった。話しても誰も本気にしなかった。風の音と疲労で見た錯覚だと言われた。
その夜、自室で眠らされた。
夜明け前、顔のかゆみで目が覚めた。洗面所の鏡に映った自分の頬は、赤紫に濡れていた。匂いはなかった。ただ色だけが残っていた。
それ以来、エイジはその部屋で眠らない。今も実家に戻るとリビングで横になる。
「じいちゃんじゃない」
最後にそう断言した。
だが彼は、居酒屋の帰り際、ぽつりと付け足した。
あの日、机の上に置いてあったはずの祖父の遺影が、椅子の方を向いていたという。自分は触っていない。家族も触っていない。
写真の中の祖父は、笑っていた。
その口元だけが、赤く滲んでいたらしい。
エイジは、今でもあの言葉を覚えていると言った。
「お……おお、エイジ、エイジか」
あれが祖父でなかったとすれば、誰が自分の名を、あの調子で呼んだのか。
そしてもし、祖父だったのだとしたら。
自分が覚えている祖父の方が、間違っているのではないかと。
そう言って、エイジは笑った。酔いのせいにするには、乾きすぎた笑いだった。
あれは、じいちゃんじゃない。
彼はそう言い切ったが、その言葉だけが、妙に言い訳じみて聞こえた。
[出典:107:本当にあった怖い名無し:2006/11/23(木)21:06:45ID:R+kCsyBN0]