中学の頃まで過ごした故郷は、岩手県の二戸市金田一という小さな町だった。
山の匂いと湿った土の感触が、いまでも鼻の奥にこびりついている。
この町に、昔から妙な宿があった。緑風荘。
表向きは、座敷童子の出る宿として有名だ。観光雑誌には「泊まれば幸運が訪れる」と、明るい笑顔の女将の写真と共に載っている。だが地元の者は、少し違う意味でその名を知っていた。
宿の主人は、俺の親父の兄貴の同級生。親父も俺も、昔そこに泊めてもらったことがあるらしい。
らしい、というのは……俺にはその時の記憶が全くないからだ。親父は、あの夜確かに「それらしいもの」を見たと言うが、詳しくは話してくれない。笑って誤魔化すくせに、目の奥だけが笑っていなかった。
それでも、親父には何らかのご利益があったのかもしれない。
出世なんて言葉では足りないほどの立場になった。今や一万人以上の人間を動かす役職。本人は「努力の結果だ」としか言わないが、あの宿の話になると、決まって口を閉ざす。
俺? 俺はそんなものには縁がない。ディーラーをして、良い時は年収が跳ね上がるが、悪い時は死にたくなるほど落ちる。親父には「不良息子」と呼ばれているが、そんな言葉はもう慣れた。
ただ――俺は、あの宿と、この土地に残る話を、妙に忘れられないだけだ。
親父から聞いた。
金田一の昔は陸の孤島のようなもので、貧しさが人を変えていた。子供を作っては売る家があった。売れない子供、病や障害を持つ子供は……家の奥に閉じ込められた。あるいは、いなくなった。
河童の話も、白子や奇形の子を川に流した風習の名残だと、笑えない声で言っていた。
閉じ込められ、声も出せずに死んでいった子供たちを、人々は《座敷童子》と呼んだ。
霊となり、優しくしてくれる誰かを探して家々を巡るのだと。遊んでやれば喜び、御礼をしてくれる――そう親父は言った。けれど、面白半分で近づくと、幸運どころか罰を受ける。
俺は、信じなかった。
だが、田舎の古い家を訪れると必ず見つかる、使われていない小さな部屋。あれは偶然ではない。新築の家ですら、わざわざ「ワラスッコ部屋」を作る習慣があるのだから。
おもちゃや絵本を置き、居心地よくしてやる。そこに座敷童子が来ることを願って。
俺の実家にも、その部屋があった。
古ぼけた木馬や、色の褪せた布の人形が並んでいる。誰も使わないはずの部屋なのに、何故か空気が暖かい。夜、廊下を歩くと、その部屋の前だけが少し湿っているような気がした。
「座敷童子がいなくなると悪いことが起きる」
そう言われるが、本当は違うらしい。
彼らは、いじめられたり怖がられたりすると出て行く。その時、家の幸運も一緒に持っていくのだ。残された者には、ただの空白と冷たさだけが残る。
ある夜、帰省していた俺は、酒を飲んだ勢いで例の部屋の前に立った。
ドアの向こうは暗い。だが、耳を澄ますと……ぽとん、と小石を落とすような音がした。続けて、床板をこする布の音。まるで小さな足袋を履いた足が動くような。
「……いるのか」
誰に聞かせるでもなく呟くと、音は止んだ。
代わりに、畳の上に置かれた木馬が、ぎ……ぎ……と動く。
あの時、俺はなぜか笑った。怖さよりも、ただ、懐かしい気配がしたのだ。
翌朝、その部屋には誰もいなかった。だが、窓辺に小さな手形がついていた。
外は雪。窓の外側には足跡はなかった。
その年、俺の相場は不思議なくらい好調だった。何を買っても当たる。まるで見えない誰かに、正しい札を手渡されるように。
だが、春を迎える頃、親父から一本の電話が来た。
「……ワラスッコ部屋、壊しちまった」
古くなった家を建て替えることにしたらしい。業者が解体した時、中から色あせた小さな布の袋が出てきた。中には、白髪の束。
俺はその瞬間、全身が冷えた。
あの部屋で遊んでいたのは、あの手形を残したのは――ただの霊ではない。肉を持ち、生きて、そこにいた子供の名残だったのだ。
それからだ。
俺の取引はことごとく外れ、借金が膨らんだ。親父も急な病に倒れ、長い入院生活に入った。
あの雪の日の手形は、もう拭き取られてしまった。けれど、夜になると、耳の奥にあの足音が蘇る。
ぎ……ぎ……。
俺はまだ、緑風荘には行けずにいる。
もしもあの宿で、あの足音と再会したら――もう、戻れなくなる気がするからだ。
[出典:24 :本当にあった怖い名無し:04/11/11 16:08:47 ID:dvDFd7/u]