あの女と出会ったのは、たしか平成十六年の春だった。
鳥取の街はまだ肌寒く、港から吹く潮風が夜の店のネオンを濁らせていた。仕事帰り、ふらりと入ったスナックで、奥の席から笑い声が響いていた。妙に太い、喉にかかった声。あれが、最初だった。
「おらぁ、飲め!」
半ば怒鳴るようにしてジョッキを突き出すその仕草に、反射的に笑ってしまった。化粧は濃く、顔立ちは取り立てて美しいわけでもない。けれど、なぜか視線を外せなかった。酔っていたせいだと、あのときは思った。
それから、何度か通ううちに、女のまわりには妙な人間たちが群れているのに気づいた。小柄で神経質そうな新聞記者、仕事に疲れた会社員、警察官、無職の男……それぞれが何かを失いかけた目をして、女の前に座っていた。みんな笑っているのに、笑っている顔がどこか凍りついている。
酒と、金と、秘密の匂いが店の中に漂っていた。
やがて俺もその輪の中に引き込まれた。財布の中身が減っていくのはわかっていた。けれど不思議と、そこから抜け出そうとは思わなかった。女はときに甘く囁き、ときに罵倒し、時には湯気の立つ急須を手に持って笑った。視線の奥に、何か渦巻くものがあった。
数年のうちに、女の周辺で男たちが次々と死んでいった。新聞記者は線路の上で潰れ、若い会社員は海で浮かび、警官は山で首を吊った。知っている顔ばかりだった。誰もが何かを抱えて、そして急にいなくなった。
ひとり、無職の五十八歳の男は、死ぬ前日にうちの近くでうずくまっていた。声をかけても、焦点の合わない目で「もうだめだ」と繰り返すばかりだった。翌日には冷たくなっていた。葬式の席で、女は黒い服のまま饅頭を頬張り、舌の端で笑っていた。
平成二十一年の春、北栄町の海でトラック運転手の死体が見つかったとき、さすがに胸がざわついた。肺から砂が出たと聞いた。そんなことはありえない、と誰かが言った。半年もたたずに、今度は川で別の男が死んだ。水深は膝にも満たない二十センチ。顔を押しつけられた跡があったらしい。
噂は濁流のように街を流れた。けれど、女は変わらなかった。いつも通り酒をあおり、豪快に笑い、時に優しい声で俺を呼び寄せた。呼ばれると断れなかった。あれは何だったのか。色香ではない。母性でもない。ただ、抗いがたい吸引力だった。
その年の秋、女は詐欺で捕まった。町中の空気が一気に変わった。警察は彼女の過去を掘り返し、次々と死を数え上げた。テレビが「連続不審死」と騒ぎ立てたとき、俺は妙な安堵を覚えていた。けれど、同時に胸の奥がすうすうと冷えていった。
彼女の目を、もう一度見たかった。
裁判が始まると、直接の証拠はないという話ばかりが報じられた。睡眠薬の痕跡、走行記録、金のやり取り……積み重ねられたのは、曖昧な影のような事実ばかりだった。それでも判決は死刑だった。
法廷で、彼女は少し痩せて、けれど口元は笑っていた。
その笑みを見たとき、妙な感覚に襲われた。まるで、こちらが試されているような。
新聞は「なぜ、魅力に乏しい女に男たちは惹かれたのか」と書き立てた。だが、あれは魅力ではない。もっと底の深い、暗い淵だった。目をのぞき込むと、足元から水が満ちてきて、呼吸ができなくなるような……そんな感覚だった。
ある晩、夢を見た。スナックの席で、女がいつものように俺にジョッキを突き出している。背後では、あの亡くなった男たちが静かに立っている。誰も瞬きせず、口も開かない。
「飲めや」
その声で目が覚めた。喉はからからで、時計は午前三時を指していた。
もう彼女はこの世にいないはずだ。それなのに、あの声は今も耳の奥に残っている。信号待ちの車内でも、スーパーの冷凍食品売り場でも、不意に蘇る。
振り返っても誰もいない。けれど、ふと気づくと、財布の中身が減っている。家の鍵の位置が変わっている。急須の底に、知らない砂が溜まっている。
あれから十六年。
夜の港町を歩くたび、あの笑い声を探してしまう。
もしまた会えたなら……俺はきっと、席につくだろう。もう二度と戻れないとわかっていても。
(了)