先日、かつて出会った「元少年」と再会した。
その顔を見た途端、あの出来事が堰を切ったように甦り、私はどうしても書き留めておかずにはいられなくなった。
五年ほど前のゴールデンウィーク、私の現実は音を立てて崩れ、知らぬ世界へと滑り落ちたのだ。
あの日、ショッピングモールのベンチでうたた寝していた。
まぶたの裏が赤く染まるのを感じて目を開けると、広い吹き抜けの天井の向こうに、不気味なまでに鮮烈な真紅の夕焼けが広がっていた。人影は一つもなく、ただ空間だけが赤い光にひたされていた。
胸の奥が冷えあがった。とにかく外に出なければと思い、エスカレーターへ向かう途中、小さな女の子に出会った。小学校低学年くらいだろう。季節は五月なのに、ふかふかのジャンパーを着ていたのが妙に引っかかった。
彼女は怯えた顔をして、無言で私の袖を掴んできた。言葉はいらなかった。二人で歩き始めた時、背後からハイヒールの足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。
スーツ姿の若い女性が現れ、私たちを見るなり蒼ざめた顔で「なんで二人いるの!?」と声を上げた。その言葉の意味を問う前に、彼女は慌てて携帯電話を取り出し、先輩だか上司だかと短く連絡を取り始めた。しばらくして息を整えるように笑みを作り、「防災避難訓練中でした。ご迷惑をおかけしました」と淡々と言った。
導かれるまま歩いていくと、防火シャッターに突き当たった。一般的な蛇腹のものではなく、表面がつるりとした鉄板の壁。端に人一人が通れるドアがあり、彼女はノブを掴み「こちらを抜ければ戻れますので」と告げた。
次の瞬間、押し込まれるように私と少女はドアを通過した。
そこには、つい先ほどまで不在だった群衆が、何事もなかったかのように買い物を続けていた。店員の声、笑い声、食器の触れ合う音が洪水のように押し寄せ、目の前の光景が信じられなかった。振り返ると、防火シャッターなど存在せず、ただ昼下がりの賑わいだけが広がっていた。
頭が混乱で焼けつきそうになったが、少女が怯えながらも私の手を離さなかったため、なんとか踏みとどまれた。
インフォメーションで彼女の母親が呼び出された時、事態はさらに歪んだ。
母親は険しい顔で私を誘拐犯呼ばわりしたが、少女の必死の説明と防犯カメラの映像が証拠となり、どうにか疑いは晴れた。母親は売れっ子子役の母で、過去にも事件じみた騒ぎがあったという。冷えきった私の体に、母親が差し出したコートだけが現実感をもたらした。
帰宅後、テレビを点けるとアナウンサーが告げた。「三月三日のニュースをお伝えします」
私は耳を疑った。暦は確かに二ヶ月巻き戻り、ニュースも街も、携帯の画面も、全てが三月に戻っていた。寒さの理由もそこにあった。
だが違和感は随所に散らばっていた。本棚にあるはずの小説のシリーズは、十年以上途絶えていたはずなのに新刊が並んでいる。険悪だった同僚は、今や信頼できる友人のように接してくる。極めつけは親友Aだ。虐げられ介護奴隷と化していたはずの彼女が、有名作家の養女となり、女流棋士として活躍し、雑誌に記事が載るほどの存在になっていた。
世界は、限りなく私の現実に似ていながら、決して同じではなかった。
二ヶ月をその世界で過ごし、再びゴールデンウィークが巡ってきた。
私はショッピングモールへ赴き、あの日の行動をなぞろうとした。だが途中で少年とぶつかり、計画は脆くも崩れ去った。
泣き出した少年から事情を聞くと、彼の友達三人が「エレベーターで異世界に行く遊び」を試し、行方不明になったという。三階建てのモールでどうやって、と訝しんだが、少年は「兄が法則を見つけた」と信じきっていた。
少年を伴いインフォメーションへ向かう途中、作業着姿の中年男性が現れた。彼は私たちを見るなり目を細め、「どうやってここに来た」と呟いた。その声は柔らかさを装いながら、底に鉄の冷たさを含んでいた。
事情を聞いた彼は、少年に向かって「坊やは連れて行けるが……嬢ちゃんがいると厄介だ」と言った。そして私に「同じ所には戻れないかもしれん」と囁いた。
私はその意味を理解できぬまま、教えられた手順でエレベーターを操作した。ボタンを押す順番、キャンセル、再入力。黙々と指を動かすうち、機械の箱は妙に静かな震えを帯びた。
三階で扉が開いたとき、そこはまたしても無人の世界だった。人影も音もなく、赤みを帯びた空気が漂っている。十分以上待っても少年の友人は現れず、仕方なく帰還の操作に移ろうとした。
その時、扉が閉まる寸前に何者かが押し入った。箱は震え、空気がひりついた。目を凝らしたが、誰の姿もなかった。恐怖を押し殺して帰還操作を完了させると、エレベーターは一階へと戻った。
扉が開くと、少年が友達と再会していた。だが彼らは私を見て蒼白になり、「黒い影が乗っていた」と口々に叫んだ。少年だけが「普通のお姉さんだよ」と首をかしげていた。どうやら彼らの目には、私が異形に映っていたらしい。
作業着のおじさんの姿は既になく、行方を知る者もいなかった。
母と合流し、日常へ戻ったと思ったが、世界はまた微妙に変化していた。
親友Aは、介護していた家族を一ヶ月前に失い、さらに右目を失明していた。そして容疑者として追い詰められていたのを、どうやら「こちらの私」が奔走して無実を証明したらしい。
あのおじさんが「同じ所は無理かも知れん」と言った意味が、ようやく分かる気がする。私は二度と、あの最初の世界には戻れなかったのだ。
不思議なのは、この体験を今まで忘れていたことだ。顔も声もはっきり覚えていたはずの少女やおじさんの姿が、霧のように薄れていく。再会した元少年の顔さえ、すでに曖昧になりつつある。
現実とは、ひょっとすると常に揺らいでいて、私が握っていると思っていた輪郭など、最初から存在しなかったのかもしれない。
私はいまもショッピングモールのエレベーターに乗るたび、指先が震える。扉が閉まる瞬間、赤い空と無人の世界が、再び私を迎えに来る気がしてならない。
[出典:624 :本当にあった怖い名無し:2018/03/14(水) 13:21:13.74 ID:xEjUEaj70.net]