山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容れざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。これも熊野の山中において、白い姿をした女が野猪の群を追いかけて、出てくることがあると、『秉穂録』という本に見えている。土佐では槙山郷の字筒越で、与茂次郎という猟師夜明に一頭の大鹿の通るのを打留めたが、たちまちそのあとから背丈一丈にも余るかと思う老女の、髪赤く両眼鏡のごとくなる者が、その鹿を追うてきたのを見て動顛したと、寺石氏の『土佐風俗と伝説』には誌してある。
猪を追う女の白い姿というは、或いは裸形のことを意味するのではなかったか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振り乱して泣きながら走って行くと、この国の人上原白羽という者が、『今斉諧』の著者に語っている。それがもし実験者の言に基づくものならば、泣きながらとは多分奇声を発していたことをいうのだろう。『遠野物語』に書留められた山中深夜の女なども、待てちゃアと大きな声で叫んだといっている。他の地方にも似たる例は多く、たいていは背丈がむやみに高かったことを説いているが、怖しくて遁げて来た者の観察だから、寸法などは大ざっぱなものであろうと思う。それよりも土地を異にし場合を異にして、おおよそ形容の共通なるもの、例えば声とか髪の毛の長く垂れていたとかいう点の同じかったのは注意に値する。山で大きな女の屍体を見たという話は、これもいくつかの類例が保存せられてあるが、なかんずく有名なのは夙く橘南谿の『西遊記』に載せられた日向南部における出来事である。
「日向国飫肥領の山中にて、近き年菟道弓にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にして色ことの外白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。猟人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂ふにぞ。後の祟りも恐ろしく取棄てもせず、其まゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云へり」云々。この菟道弓のウジというのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ処を往来する習性があるのを知って、かかればひとりでに発するようにウジ弓を仕掛けておくのである。それにきて斃れたというのはいくら神でなくとも驚くべき不注意であって、珍しい事件であったに相違ないが、都に住む橘氏ならばとにかく、土地の猟人が始めて名を知ったというのは、やや信じにくい話である。ことにこの方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁であり、現にこの記事以後にも、いろいろの珍聞が伝えられているのである。八田知紀翁の『霧島山幽界真語』の終りに、次のような一話が載せてある。
「おとゞし(文政十二年)の秋、日向の高岡郷(東諸県郡)にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋領の小菅岳といふ山に、高岡郷より猟に行通ふ者のありけるが、一日罠を張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方は人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は数百年の昔、世の乱れたりし時、家を遁れ出てこの山に兄弟共に隠れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の実やうのものにて有り経しかば、おのづから斯う形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る処に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで/\我命をば助けよかしと涙おとして詫びけれど(その言語今の世の詞ならで、定かには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘里へ馳せ還りて、友あまたかたらひ来て其女を殺してけり。さて其男は幾程も無く病み煩ふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。」
小山勝清君の外祖母の話であった。明治の初年、肥後球磨郡の四浦村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた猪罠に罹って、是も一人の若い女が死んでいた。丸裸であったそうだ。これを附近の地に埋めたが、のちに祟りがあったという話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しずつ時を異にし、またわずかばかり場処をちがえていずれも霧島市房連山の中の、出来事であったという点である。ただし猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かかった女が身の上を語ったという小菅岳の一条には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ別れに住んでいて、時あって相訪うということは話の様式の一つであり、乱を避けて山に入ったというのも、この地方の人望ある昔談りにほかならぬ。言葉が古風で聴取りにくかったという説明とともに、必ず仲継者の潤飾が加わっているかと思う。それよりも大切な点はわずかな歳月、わずかな距離を隔てて似たような三つの事件が起りしかもそれぞれ状況を異にして、真似た痕跡のないことである。自分は必ず今にまた新しい報告の、更に附加せらるべきことを予期している。
他の地方の類例はまた熊野の方に一つある。長八尺ばかりな女の屍骸を、山中において見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記している。それから『越後野志』巻十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、この国頸城郡姫川の流れに、山男が山奥から流れてきた。裸形にして腰に藤蔓を纏う。身のたけ二丈余とある。ただし人恐れてあえて近づかず。ついに海上に漂い去るといって、寸尺は測って見たのではなかった。しかも二丈余というのはかねてこの地方で言うことと見えて、同じ書物の他の条にもそう書いてある。
ただし山男の身長の遙かに尋常を超えていたことは、他の多くの地方でも言うことで或いは事実ではないかと思う。このついでにほんの二つか三つ実例を挙げてみるならば、『有斐斎剳記』に対馬某という物産学者、薬草を採りに比叡山の奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまた攀じ登って遊んでいるのを見た。村の子供がきて遊ぶものと思っていたが、後日そこを通ってみるに、岩は高さ数仞の大岩であった。それから推して見ると小児と思ったのは、身の丈一丈もあったわけで、始めて怪物ということに気がついた。石黒忠篤君がかつて誰からか聴いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉、或る年公命を帯びて木曾に入り、山小屋にとまっていると、月明らかなる夜更にその小屋の外にきて高声に喚ぶ者がある。刀を執って戸を開いて見るに、そこには早影も見えず、小屋の前の山をきわめて丈の高い男の下って行く後姿が、遠く月の光で見えたそうだ。山男であろうとその折従者に向かっていわれたが、他日ついに再びこれを口にせず、先生の日記にも伝にも、その事を記したものはなかったという。山中笑翁が前年駿州田代川の奥へ行かれた時、奥仙俣の杉山忠蔵という人が、その父から聴いたといって語った話の中に、若い時から猟がすきで、毎度鹿を追うて山奥に入ったが、真に怖ろしくまた不思議だと思った事は、生涯に二度しかない。その一度は山中の草原が丸太でも曳いて通ったように、一筋倒れ伏しているのを怪しんで見ているうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分かれて、次第に頂上に押し登って行ったこと、今一度は人の足跡が土の上にあって、その大きさが非常なものであった。かねてこんな場合の万一の用意に、持っている鉄の弾丸を銃にこめて、なお奥深く入って行くと、ちょうど暮方のことであったが、不意に行く手の大岩に足を踏みかけて、山の蔭へ入って行く大男の後姿を見た。その身の丈が見上げても目の届かぬほどに高かった。あまり怖ろしいので鉄砲を打ち放す勇気もなく還ってきたと語ったそうである。昨今は既に製紙や枕木のために散々に伐り荒されたから事情も一変したが、以前はこの辺から大井の川上にかけては、山人に取っての日高の沙留ともいうべく、最も豊富なる我々の資料を蔵していた。安倍郡大川村大字日向の奥の藤代山などでも、かつて西河内の某という猟師が、大きな人の形で毛を被った物を、鉄砲で打ち留めたことがあった。『駿河国新風土記』巻二十には、なんでも寛政初年の事であったらしく記している。打ち留めたものの余りの怖ろしさに、そのままにして家に帰り、それが病の元になって猟師は死んだ。その遺言に一年も過ぎたなら、こうこうした処だから往って見よとあったので、その通りに時経てのち出かけて捜して見ると、偉大なる脛の骨などが落ち散り、傍にはまた四五尺あるかと思う白い毛が、おびただしくあったと伝えられる。そのように長いならば髪の毛だろうと思うが、何分多くは何段かの又聞きであったため、満身に毛を被るという記事がいつも精確でなく、ことにこの地方では猿の劫経たものとか、狒々とかいう話が今でも盛んに行われて、一層人の風説を混乱せしめる。新聞などを注意していると、四五年に一度ぐらいはそういう噂が必ず起こり、その実打ち取ったのはやや大形の猿であり、ただその話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなっている。つまりはうそであり誇張ながらも、由って来たるところだけはあるのである。なお最後に今一つ、どうでも猿ではなかった具体的の例を出して置く。これは『駿河志料』巻十三、『駿河国巡村記』志太郡巻四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百余年前の出来事であった。
「大井川の奥なる深山には山丈といふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠の里を未明に立ち、智者山の険岨を越え、八草の里に至る途中、夜既に明けんとするの頃深林を過ぐるに、前路に数十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈余の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜かに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又声を揚ぐべからず、此林の茂みに影を匿せと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只声を呑みてかたへに隠る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺ふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇そりかへり、髪の毛は一丈余にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵の思ひを為し、案内と共にかの処に来りて其跡を閲するに、怪獣の糞樹下にうづたかく、その多きこと一箕ばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥きさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹を好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに噛み砕ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按ずるに是は狒々と称するものにて、山丈とは異なるなるべし」(以上)。この話はいかにも聴いた通りの精確な筆記のようだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじっていること、あたかも噛み砕いた篠竹のごとくである。例えば長き唇反り返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、じつはどんな風に長いのか、日本人には考えもつかぬ。とうてい夜の引明けなどに眼につくような特徴ではなかったのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに当るだろう。すなわち山人の男子のやや年輩の者を、幾分尊んで用いた称呼にして、正しく山姥と対立すべき中世語であった。