これは、ある女性から聞いた話だ。
彼女には、IT関連の仕事に勤める夫がいる。仕事熱心で責任感が強く、締め切り前には深夜まで働くことも珍しくないという。そんな夫が、ある夜「遅くなるから先に寝てて」とメッセージを送ってきた。いつものことだった。しかし、その夜だけは、胸の奥がざわついて仕方がなかったらしい。
眠れぬまま、外を眺めると月明かりが街を静かに照らしている。だが、その光景が妙に冷たく感じられ、彼女は衝動的に車に乗り込んだ。理由はわからない。ただ夫の職場が気になって仕方がなかったのだ。
深夜の街を走ると、人気のない道路が車内に奇妙な孤独感を運んできた。夫のオフィスビルに近づくと、3階の窓から淡い光が漏れているのが見えた。間違いなく夫が働いているはずだと胸をなで下ろしかけたその瞬間、背筋を刺すような視線を感じた。
窓際に立つ人影があった。じっとこちらを見下ろしている。夫だろうか?しかし、その佇まいには何か違和感があった。まるで蝋人形のように動かず、不自然に静止しているのだ。
もう一度よく見ると、オフィスの奥にもう一つの影がある。それは明らかに夫のもので、忙しそうにキーボードを叩いている。では、窓際の影は何なのか?急速にこみ上げてくる恐怖心を抑えようと、彼女は車を降り、ビルの入り口へ向かった。
ロビーは薄暗く冷たい空気に包まれていた。足音が異様に響き、鼓動の音が耳元で鳴り続ける。エレベーターを待ちながら、もう一度夫に電話をかけたが、応答はない。エレベーターのドアが開き、中に入ろうとした瞬間、背後から静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、夫が立っていた。
「待たせてごめん」と、いつものように微笑む彼。しかし、その顔色がどこかおかしい。血の気がなく、目の奥が虚ろだ。いつもの温かい雰囲気は感じられず、言葉の調子もぎこちない。「仕事、大変だったの?」と尋ねると、「ずっと働いてたよ」と、感情のない声で答えた。
夫と共に車に戻る間、彼女は心に言い知れぬ違和感を抱え続けた。隣を歩く彼の足取りは軽すぎるほど軽く、影すら薄い気がした。
車に乗り込み、エンジンをかける前にふとビルを振り返った。その瞬間、全身の血の気が引いた。
3階の窓際に、もう一人の夫が立っていたのだ。
変わらぬ姿勢でこちらを見下ろすその影は、明らかに異常だった。助手席に座る夫と、窓際に立つ夫――どちらが本物なのか。車内の空気が異様に冷たく、隣にいるはずの夫が遠く感じられる。
意を決して助手席の彼を見つめると、薄く笑った唇が動いた。「どうしたの?」と優しい声が響くが、その目の奥には深い闇が宿っていた。
恐怖の頂点に達した彼女は、車を飛び出した。遠くで警察のサイレンが響く中、車内を振り返ると、助手席には誰も座っていなかった。ビルの窓にも、あの人影は消えている。
スマートフォンを震える手で取り出し、夫に再び電話をかけた。呼び出し音の後、ようやく声が聞こえる。
「どうしたの?」と夫が尋ねる。
「今どこにいるの?」
「オフィスだよ。あと少しで終わるから帰ったら連絡する」
その言葉に、彼女は言葉を失った。では、先ほどの「夫」は一体――?