松本君から聞いた話
松本君は当時マンションに住んでいました。
十三階建てのマンションで、松本君は九階に住んでいたそうです。
蒸し暑い土曜の夜、酒でも飲もうと冷蔵庫を見ましたが、つまみがありません。
松本君はどうしてもつまみがほしくなり、近くのコンビにまで買いに行くことにしました。
いちいち着替えるのが面倒な松本君は、深夜だったのをいいことにパジャマで、出かけました。
自分の部屋を出て、エレベーターのボタンを押しました。
そのとき、エレベーターは、ひとつ上の十階で停止していました。
にもかかわらず、なかなかエレベーターが下りてきません。
これは誰か乗り込んでいるな……
松本君はそう思いました。
しばらく松本君は無人のエレベーターホールで、虫の声に耳を傾けていました。
松本君の想像は正しく、上から降りてきたエレベーターには、誰かが乗っていました。
おそらく、男だと見受けられましたが、詳しくは分からなかったそうです。
なぜなら、真っ黒のコートを着て、帽子を深くかぶって目も見えません。
明らかな不審人物に松本君は怖くなりましたが、止めた以上、乗らないわけにも行きません。
「こんばんわ」と挨拶をして、バツが悪そうに乗り込んだそうです。
その男は、挨拶をまったく無視でエレベーターの壁に腕組みをしてもたれ掛かっていました。
ドアの前にいた松本君と男は少し距離があったのですが、男は妙に息が荒くまるで、すぐ後ろにピッタリとくっついているような錯覚を覚えます。
松本君もこれ以上関わらないでおこうと、男と目を合わさないようにしました。
8…7…6…5…4…3…2……
背中に鋭い寒さを感じながらも、順番にエレベーターが下りていきます。
エレベーターの中は、恐ろしいくらい静かで、張り詰めた空気が流れていました。
一階に到着すると、男は走ってドアから出ようとしました。
そのとき、松本君に肩が思いきりぶつかりました。
「アっ!すいません」
松本君は言いました。
しかし、その男はこれも無視して、マンションから出て闇の中に消えていきました。
あまりに無礼な男の態度に、内心苛立ちながらも松本君は、さっさとコンビニへと向かいました。
暗い夜道を歩いて五分くらい行くと、いき付けのコンビニが見えてきました。
コンビニの光りをみるとさっきまでの緊張がほぐれたそうです。
手早くつまみをチョイスして、商品を店員に渡したとき、店員は松本君のほうを見て、ぎょっとしたそうです。
松本君は「どうかしましたか?」と聞きますが店員は目を逸らして「何でもありません」と言いました。
もやもやとした気持ちで、家に戻った松本君は玄関でとんでもない物を目にしました。
玄関を入ったところに鏡が掛かっているのですが、その鏡に自分の肩が映りました。
それも血がべったりと付いた真っ赤な肩が……
松本君は焦り急いでパジャマを脱ぎ、腕を見ましたがなんともありません。
そこで、男にぶつかられたことを思い出しました。
多分あの男の血だろう。店員もこれを見て驚いたのだ……
見たことのある人でないと分からないと思いますが、黒いコートに付着した血はほとんど見えません。
だから、松本君はエレベーター内で血のことは、まったく気がつきませんでした。
気分が悪くなった松本君は、その日せっかく買ったつまみを、冷蔵庫に入れて眠ってしまいました。
二日が過ぎ、リビングで松本君がくつろいでいるとインターホンが鳴りました。
松本君は覗き穴から相手を見ると、どうやら警官のようです。
松本君は風呂上りでパンツ一丁だったので、ドア越しに話しかけました。
「どうかしましたか?」
すると警官は話し出しました。
「二日前にこのマンションで殺人事件がありました。不審な人物を目撃されませんでしたか?」
松本君は震え上がりました。
一緒にエレベーターに乗り込んだあの男が殺したんだとすぐ分かりました。
しかし、松本君はこの頃多忙で、事情聴取などで時間を割かれたくありませんでした。
「いいえ、その日は家にいなかったので知りません」
そう聞いた警官は人懐っこそうに笑い一礼すると「ご協力ありがとうございます」
そう言うと、次の家に行ってしまいました。
松本君はこのとき生まれて二番目に驚いたと言っていました。
今更ながら足が震えたそうです。
もしかすると、殺されていたかもしれなかったのですから。
でも本当に怖かったのはそのあとでした。
さらに数日が経ったある日、何気なくテレビをつけると、ニュースでマンションでの殺人事件のことをやっていました。
そこでやっと本当にあったんだと、確信したそうです。
恐怖を感じた反面、あまりに非現実的すぎて信じ切れなかったようです。
アナウンサーがニュースを読み上げます。
どうやら犯人が捕まったというニュースのようです。
画面に犯人の顔写真が映りました。
松本君はこのとき、人生で一番驚いたといっていました。
なぜなら、その顔はあの尋ねてきた警官の顔だったそうです。
松本君はあのときドアを開けていたら、今ここにいないだろうと笑っていました。
これでまっちゃんの話は終わりです。
(了)