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長編 ミステリー

明智光秀と天海僧正は同一人物説を裏付ける圧倒的な根拠 知られざる謎の生涯とその秘密【もはや都市伝説ではない】

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明智光秀の知られざる秘密

享禄元年(1528年)現在の岐阜県可児出身、明智城主の子。

明智氏は美濃守護・土岐氏の分家。

はじめは斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、道三とその子・斎藤よしたつの争いが勃発した際に、道三側についたことから明智城を義龍に攻撃され、一族の多くが討死した。

光秀は 明智家再興を胸に誓って 諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする 極貧生活を続け、妻の煕子は黒髪を売って 生活を支えたという。

煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり 体中に痕が残ったことから、煕子の父は 姉とソックリな妹を嫁がせようとした。

しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという。

当時の武将は 側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は 一人も側室を置かず 彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は 鉄砲の射撃技術をかわれて 越前の 朝倉義景に召抱えられた。

1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。

射撃演習の模範として 通常の倍近い距離のマトに 100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜く スゴ腕を見せた。

1566年(38歳)、13代将軍 足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、
光秀は義昭の側近・細川藤孝と意気投合し、藤孝を通して 義昭も光秀を知ることとなる。

夢を抱いて信長のもとへ~この男に賭ける!

足利義昭は 幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は 朝倉氏に見切りをつけて、桶狭間の戦以来、勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。

1567年、義昭に見込まれた光秀は 付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。天下を狙う信長にとって 足利家が手駒になるのはオイシイ話。

さっそく翌年 1568年に 信長は 義昭を奉じて上洛し、14代義栄を追い出して 15代将軍義昭を擁立した。

40歳の光秀は、義昭の将軍就任を見届けて 万感の思いだった。光秀は朝倉家で「鉄砲撃ちをしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、これで恩が返せたと思った。

こうして光秀は、信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。

光秀は 荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした 珍しい教養人。

京都に入った光秀は、朝廷との交渉役となって信長を支え、積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。

そして秀吉をはじめ 重臣4人で 京都奉行の政務に当たった。

注目すべきは、まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家 生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。

いかに信長が6歳年上の光秀のことを 高く評価していたかが分かる。

しかし、間もなく光秀が苦悩する事態に。

1570年(42歳)、信長は義昭のことを最初から操り人形と思っていたので、『書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること』
『天下のことは信長に任せよ』など脅迫的な書状を送り 約束させる。

信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は影響力を排して自立したいと熱望するようになり、諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促した。

この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など 宗教勢力も反信長勢に回る。

6月、『姉川の戦い』。

浅井・朝倉軍VS 織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れず。

この凄惨な戦いで姉川は水が真っ赤に染まったという。

光秀にとって 朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。

それも、ほんの3年前の事だ。

非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。

織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。

この時点での 有名武将の年齢は 光秀42歳、信長36歳、秀吉34歳、家康28歳

1571年7月、光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する(信長は築城費に黄金千両を与える)。

これは織田家にとって 大事件だった。

光秀は 初めて自分の城を持っただけではない。

織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて 一国一城の 武将となったのだ
(NO.2の秀吉でさえ 長浜城を持つのは3年後

光秀の喜びは計り知れない「織田に来て良かった…」。

坂本城は 琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師 ルイスフロイスは後に「信長の 安土城の次に 天下に知られた名城が 明智の城だった」と絶賛している。

信長、「天魔」となる

9月、信長の家臣団は思わず耳を疑い、それが“本気”と知って青ざめた…

「(中立を守らぬ)比叡山を焼き払え」というのだ。

しかも、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も皆殺しにしろという。
仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩じゃ」
と殺戮を厳命。

叡山に顔見知りが多くいた光秀は 抗議する
「確かに堕落した僧侶もいますが 全員ではありません。

真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」。

信長は完全無視。

家臣は 信長の命令に逆らえるはずもなく
(さもないと自分が斬られる)、織田軍は 延暦寺を襲った。

最澄による開山から 約800年。

叡山の寺院は 軒並み灰燼と化し、男女 約3千人が虐殺され、犬までが殺されたという。

この焼き討ちは 4日間続いた。

諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は 天魔のへんげである」と糾弾した。

「信長は何をしでかすか分からん」。

将軍義昭は これ以上 信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。

光秀は 義昭直属の幕臣として、「今の信長公には 絶対に勝てませぬ」と恭順するよう何度も説得したが、衝突は避けられぬことを悟る。

同年暮れ、ついに義昭にいとまを請い 幕府を去った。

1572年、信長が最も恐れていた 戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。

上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦いで 家康を軽くひねり潰し、愛知まで迫る。

1573年(45歳)。

正月、義昭はほくそ笑んでいた。

「信長包囲網は完成した。信玄が来れば 信長も終わりだ」。

事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には“闘神”上杉が無傷で控えていた。

3月、「信玄接近中」の知らせに 舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに 信長へ宣戦布告する。

ところが翌月、信玄が病死!
7月、義昭が立て篭もる城への攻撃に、光秀も加わるよう命じられた。

大軍に攻められ 義昭は降伏。

さすがに信長も将軍は斬らなかったが、京から 追 放 した。

ここに 237年続いた足利政権は 終焉を迎えた。

光秀が 身を粉にして 復興させた室町幕府は 主君 信長の手で滅亡した。

8月、信長は3年前の「姉川の戦いで敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。

浅井長政は 信長の妹 お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。

同年、信長は 正親町天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。

信長は 自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事 “改元”を命じたのだ。

一人の戦国武将が 元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺される(天皇が死ねば自動的に改元される)と思い 震え上がった。

そして年号は 元亀から「天正え改元された。

信長は幕府を滅ぼしたこの年を “元年”にしたかったのだろう。

数ヵ月後に 天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。

そしてなんと、正倉院に入って皇室のホウモツ中のホウモツである香木の「蘭奢待 を切り取った。

信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを 記す。

天皇は抗議の意味を込めて、その木片を 信長と対立している毛利氏に贈った。

信長の暴走やまず

1574年、信長に招かれ 正月の宴に参加した重臣達は 腰を抜かす。

「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども、祝い酒じゃ!」。

家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧され黄金色に輝く 浅井父子と朝倉義景 3人の頭蓋骨!

信長は その頭部を割って裏返し、これに酒をついで呑め と言う。

しかも、光秀の前に回されたのは朝倉氏。

「どうした光秀、呑めんのか」
「こ…これは、そ、それがしの、かつての主君でありまする…」。

信長はこういう悪趣味を強要する一面があった。

実際、比叡山の焼き討ち以来、「天魔」「魔王」と呼ばれるほど 信長の残虐度は加速し、狂気を帯び始める。

特に 一向一揆への弾圧は 苛烈を極め、同年9月の 伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を 柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。

文字通り 騙し討ちである。

土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。

信長は4年前に 伊勢の一向衆に 愛する弟・信興を殺され、怨みまくっていた。

「姉川の戦い直後で 弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がった。

信長 最悪の殺戮は 越前で起きた。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆と認定し、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。

その数は信長に届けられた首の数だけでも12,250とされ、総計4万人にのぼるという(うち3万は 信長が越後に入って僅か5日間で殺されている)。

信長は手紙にこう記した
「府中の町は 死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も 山々 谷だにを尋ね探して 打ち 殺す つもりだ」。

※越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた
「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。

1575年5月(47歳)、信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕。

射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。

翌月、光秀は 丹波国を与えられ 攻略を開始。

10月、四国の長宗我部元親から 光秀に書状が届く。

元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、「仲介者になって欲しい」と心頼みにしてきたのだ。

頼られると弱い光秀は「承知した、安心なされ」。

信長は「信」の一字を与え、四国において元親が戦で手に入れた土地を保証すると伝えた。

1576年、信長は安土城に入城(城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる)。

4月、大坂・石山本願寺の攻略戦(天王寺砦の戦にて 信長は鉄砲で足を撃たれる。

石山本願寺は 数千丁の鉄砲で武装した 堅牢な要塞寺で 信長は 陥落に10年かかった。

光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。

1577年、光秀は 大和・信貴山城に籠城する 松永 久秀を 信長のこ、信忠と共に攻略。

久秀は 2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺しとなるはずだが、信長は 久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」を交換条件に命を救うと提案した。

久秀は 主君(三好家を滅ぼし、将軍(13代義輝を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちして 大仏の首を落とした男。

仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。

ルール無用のやりたい放題に 信長は ウマが合うと思ったのだろう。久秀は織田軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死、天守を吹き飛ばした。

光秀奔走・されど命は救えず

1578年(50歳)、3月に上杉謙信が急死。

これで一気に信長は天下取りに近づいた。

翌月、信長は「もう 朝廷の力など必要なし」と右大臣の官職を放棄。

8月、光秀の三女・たまこ(ガラシアが 細川忠興に嫁ぐ。

忠興は 光秀の朝倉時代からの盟友・細川藤孝の息子だ。

11月、今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。

倫子が嫁いだ先は 荒木村重の息子。

村重は 信長配下の勇将だが、彼の部下が攻略中の石山本願寺に 裏で兵糧を送っていたことが発覚し 窮地に陥った。

信長が 詫びを聞き入れるとも思えず、「どうせ腹を切らされるなら 反逆を」と謀反を起こし籠城した。

村重は 自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に 息子夫婦を離縁させ 倫子を送り返したのだ。

光秀は 怒る信長を説得し、城を無血開城するなら 城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。

ところが、村重は 1年間の籠城ごに城を抜け出すと 毛利のもとへ逃げていった(毛利にいる足利義昭とも連絡を取っていた)。

信長は 村重を 対毛利の主要武将として考えていただけに、よりによって毛利へ寝返ったと聞いて激怒。

裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、子どもや 若侍 512人を4軒の家に閉じ込めて焼き殺した。

助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀。

彼のもとに「拙者の命と妻の命を引き換えに」と荒木かたの武将が駆け込むと、光秀は「武士の情けをと信長に取り次いだが、なんと彼らは 夫婦共に処刑され、光秀は絶句した。

※荒木村重は その後「荒木道糞(どうふん)」と名乗る。

秀吉に拾われ、利休の弟子(利休七哲となる 数奇な運命を送った。

1579年、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野ひではるを下して 畿内を平定した。

しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。

ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。

怒った波多野の家臣達は 光秀の母を磔にした。

同年、信長は 家康の妻と 長男信康が 武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じた。

これは信康の嫁 信長の娘と 姑の対立が生んだ悲劇で 実際には無実だった。

しかし、家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺すことになった。

戦国のリストラ断行

1580年(光秀52歳)、10年の長きにわたった石山合戦が終結。

本願寺11代 顕如は寺から退去した。

徹底抗戦を訴える長男を絶縁して 次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。

戦後処理が一段落すると、信長は 家臣団の“リストラ”を断行した。

たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は 任務怠慢として 織田家を 追放 した。

無数の家臣がいる織田家にあって、光秀は筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興 そして勝家と続いている。

信長の 光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。

1581年(光秀53歳)、正月に光秀は坂本城で  連歌会やお茶会を主催している
(光秀は連歌をこよなく愛し、24回の催行が確認されている)。

2月、信長は京都で軍事パレードの馬揃を挙行し、“覇王信長”の力を天下に見せ付けた。

信長は わざわざ宮廷の側に 430mかける110mの大通りを造って、“朝廷など 一捻りじゃ”と軍事的圧力をかけた。

光秀は この重要行事の運営を任される栄誉を授かり、見事 この任務を全うする。

ここにも 信長の 光秀に対する 全幅の信頼が見て取れる。

信長は 荒木村重の一族皆殺しから 2年を経てなお 怒りが収まらず、旧家臣を探し出しては 斬っていた。

8月、高野山が 村重の残党をかくまっていたとして、高野山の僧侶を 数百人も虐殺する。

同年、一揆の鎮圧で 人口10万の伊賀に 4万の兵を送り、ここでも大殺戮。

この時点で 有名武将の年齢は
光秀53歳、信長47歳、秀吉45歳、家康39歳

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運命の年、1582年 『神格化宣言』

そして、歴史に残る1582年の幕が開ける。

(本能寺の変 3ヶ月前 3月)、光秀は 甲斐征討に従軍。

武田勝頼は「長篠の合戦以後も抵抗していた。

迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父は 群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するよう進言したが、勝頼は これを却下。

最期は 部下の裏切りにあい自刃した。

勝頼をいよいよ追い詰めた時に 光秀が感じ入って「我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」と激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け 諸将の前で恥をかかせた。

戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が 勝頼の亡骸を供養すると、信長は これに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。

燃え盛る炎の中で 同寺の国師(高僧)・かいせんじょうきは 「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。

※国師は天皇の師。天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないということ。

信長が国司を焼き殺したのは比叡山に続いて2度目。

4月、信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かう。往復で80キロ以上あり、城の侍女たちは 信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。

ところが 信長は疾風の如く参詣を終え 日帰りで帰って来た。

仰天かぎりなし。

本丸で勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、一部の者は城下町で買い物したり 桑実寺にお参りに行っている。

信長の癇癪が炸裂。外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにして、彼女達の助命を願った桑実寺の長老まで 一緒に斬殺した。

5月7日、長宗我部元親は  引き続き光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、信長は元親との約束を撤回して『四国征討』を決定する。

総大将は三男・信孝。

長宗我部に対して「安心なされ」と言っていた光秀のメンツは丸潰れになった。

しかも 元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹。

斎藤利三は 元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。

そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。

「光秀よ、利三を一鉄に返してやれ」
「私は 一国を失っても 大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」
「わしの命令が聞けぬのか!」。

信長は立ち上がって光秀の髪を掴むと床の上を引きずり回し、「聞けぬのか!聞けぬのか!」と廊下の柱に何度も頭を打ちつける。

「き…聞けませぬ…」。

刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。利三は そこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため 秀吉に斬首された。

この利三の娘・福が あの春日局である。

5月12日、信長は自身の誕生日に『神格化宣言』を発布した。

イエズス会の宣教師 ルイスフロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。

キリスト教徒のフロイスは これを“冒涜的な欲望”と記している。

具体的には、安土城内に 巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。

また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、神仏を拝まず信長を拝めと朝廷にも命じてきた。

これらは朝廷の宗教的権威への挑戦であり、目に見える形で自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。

信長は総見寺に 信長を拝めばこんな御利益や功徳がある”と木札を掲げた。

内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。

信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。

我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。

信長は「神だから、国師や比叡・高野山の僧を虐殺しても平気なのだ。

ここに至り、朝廷は光秀に接近し、信長を葬り去るよう命じたと考えるのは容易に想像できる。

かつて信長に上洛を促した光秀もまた、「私がこの怪物を育てた以上、この手で始末するしかない」と責任を感じ、自分一人が反逆者の汚名を被ることで「狂気の幕引きを考えていたのかも知れない。

5月15日、家康が安土城を訪れる。

事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ 3日間家康をもてなした。

そこへ 毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から 援軍要請が入る。

現在戦闘中の岡山・高松城の救援に 毛利の大軍が上って来るというのだ。信長は「一気に九州まで平らげる またとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。

家康はこの後、「本能寺の変」当日まで 京や堺の見物で関西にいた。

5月21日、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。

信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え」「お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」、そんな激励のメッセージだったのだろう。

これまでの重用ぶりを見ても、“武勇を誇る家臣は幾らでも交換がきくが、光秀は光秀であり、代わりはない”と誰よりも認識していたはずだ。

しかし信長の横暴ぶりを見続けた光秀は、もう前向きに考えることが出来なかった。

領国経営に誠意をもって努めていた兵庫~滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよとは…。(もはや、公にはついて行けぬ)

あえて謀反者となり「天魔」を討つ

5月28日、坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣。建前は 対 毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開いた。

この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。

光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知り エールを送っていた。

光秀はこれらの歌を神前に納める。

5月29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。

有力武将は皆 各地で戦闘中であり、信長一行は 約150騎と小姓が30人、約180名しかいなかった。

6月1日、信長一行は本能寺に到着。

なぜ本能寺なのか?信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうというのだ。

信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた
信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなもの。三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう)。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の100人ほどが宿泊した。丸腰も同然だった。

同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に 信長を討つ決意を告げる。

信長が他将と合流すれば暗殺のチャンスはなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍1万3千の馬首が東向きに並んだ

6月2日『本能寺の変』。

桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並ぶ。

14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。

以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田家臣団のトップとして忠節を尽くしてきた。

その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして叫んだ。

「撃てーッ!」。“ときの声”があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。

13,000対 100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。

信長は鉄砲の音で部屋を出た。

「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。

敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。

火矢が放たれ 本能寺は燃え上がる。

「是非に及ばず」。

信長は 数 本 の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのをやめた。

智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。

午前7時、明智軍の別働隊が 二条御所を攻め 長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。

本能寺は2時間ほどで鎮火し、信長や蘭丸の遺体が焼け跡から見つかった。謀反人としてのイメージダウンを避ける為 信長の首は晒さず、“遺体未発見”としておき、織田家と縁のある阿弥陀寺の 清玉上人を呼んで 丁重に葬るよう頼んだ。

後日、秀吉が再三にわたって阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、寺側は最後まで引き渡さなかった)

光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、すぐさま「信長父子の悪逆は 天下の妨げゆえ うち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。

最後の戦いへ

6月3日、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉かた魚津じょうを落としている。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。

翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り 上杉との戦いを停止して京を目指す。

5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。

後継者争いの最初の被害者だ。

午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる
(秀吉は“本能寺の変から 10日で全軍を京都に戻した)。

安土城に入った光秀は、信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受ける。

6日、光秀は上杉に援軍を依頼。7日、朝廷から祝儀を受ける。8日、京へ移動。

6月9日、信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず 光秀は焦り始める。

どの武将も 秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺しを認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。

光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。

細川家存続を選んで 親友光秀を裏切った藤孝は「自分に武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。

忠興はガラシアを辺境に幽閉した。

光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。このうえはせめて家臣だけでも協力してほしい。

50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。

光秀は人々の上に君臨したいという野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。娘ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。

10日、本能寺の変から一週間)、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立した。

11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。

12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉がたに占領されていた。

天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。

13日、『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。

一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。

光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。

明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。

戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。

「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。

堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み 戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍も駆けつけるだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。

しかし、天は光秀を 見放した。

同日深夜、大雨。おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走していたところ、落武者狩りをしていた百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。

長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害した。享年54。その場で2名が後を追って殉死。

14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋ききょういりの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。

安土城を預かっていた明智左馬助は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。

15日、坂本城わ 秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。

「それでは、光秀公のもとへ行きますぞ」
左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃した。

光秀の首はこの翌々日(17日に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。

自分の家臣全員を大切にした光秀は、戦死者の葬儀に当たって、侍大将もしたっぱの足軽も同額の葬儀費用を出している。

足軽だからといって、命の値段に差をつけたりしないのだ。

光秀は無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、「主君殺し」と非難されることも少なくない。

しかし、領国では 税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み 茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。

側室もなく 妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する心優しき男。

織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。

物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのだ。

光秀 6つの謀反理由通説を斬る

1『野望説』…光秀が天下取りを狙った。

細川父子への手紙のように、一連の光秀の言動から考えて 野望はあり得ない。

2『恐怖心説』…重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、結果を出さねば 追放 されると不安になった。

→武勲をあげ尽くした光秀である。ありえない。

3『四国説』…本能寺急襲が 四国遠征軍の出港予定日という点に注目。光秀は長宗我部の仲介となって 信長と交渉していたので、侍の筋を通す為に謀反したというもの。事実、四国遠征は中止になった。要因のひとつとして考えられる。

4『積年の恨み説』…人質となった母の死、丹波・近江などの領地没収の他、細かいことでは、髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられた、酒が呑めずに断ると「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、等々枚挙にいとまがない。

これだけの仕打ちをされれば、恨みがないはずはない。しかし、恨みだけで信長を討つというのは光秀の品格からいって考えられない。

5『足利義昭黒幕説』…かつての主君・義昭の指令。

→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。

ゆえにありえない。

6『朝廷黒幕説』…皇室が滅ぼされると思った朝廷からの指令
光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、もっとも説得力のある説である。

もし、これが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを知らせばもっと味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為に、一言も触れなかったことになる。

まさに光秀らしい。

この 朝廷黒幕説は、家康、秀吉の“見てみぬふり説も生んでいる。

朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。

信長の死で 誰が一番 得をしたか?
紛れも無く のちに天下人になったこの2人である。

信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。

“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。

家康には 信長に妻子の命を奪われた恨みもある。

家康は事件当日に 早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいている。

そして家康は三河え、秀吉は京都え すぐに戻った。幾らなんでも手際が良すぎる。

では、光秀は利用された挙句に殺されたのか?
実は、光秀が“確実に死んだ”との決定的な証拠がない。

光秀の死をめぐる 秀吉側の記録は矛盾だらけなのである。

そして、2014年6月、“本能寺の変”直前に四国の王者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三に送った手紙が岡山で見つかった。

その内容から 光秀の苦悩が一層浮き彫りになった。

元親の正室が斎藤利三の妹ということもあり、元親は良好な関係を信長と保つため光秀を頼っていた。

そして光秀の取りなしにより、信長は元親の四国征服を容認してきた。ところが本能寺の変の約1ヶ月前、信長が突然四国制圧を決定し、信長の三男・信孝率いる四国征討軍が派遣されることになった。

これにより、元親から信頼されていた光秀のメンツは丸つぶれに。新たに発見された手紙は元親が信長に屈服するというもの。

本能寺の変が起きたのは、四国征討軍の出港予定日。つまり、降伏の意志を示したにもかかわらず、征討軍が組織されたということ。光秀の胸には「元親は屈服すると言ってきたのになぜ派兵するんだ」という思いがあっただろう。斎藤利三は本能寺に斬り込んだ実行部隊を指揮。結局、信長の死によって出陣は取りやめになった。

光秀は生きていた!「天海」としての第2の人生

数々の疑問

・大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ百姓・中村長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?
また、頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意しておらぬハズがなく、それを百姓が見抜けるのか?

・中村長兵衛は どうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか?

・しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛を知る村人は小栗栖にいなかった。

村の英雄を知らないというのもオカシナはなし。

・秀吉が光秀の首を確認したのは4日後。

旧暦で6月、新暦で7月の蒸し暑さの中で顔が判別できたのか?

・明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。

・光秀の側で殉死したと伝えられている2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。

1人なら何かの偶然としても2人ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友だ。
・光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。

では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?
実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという都市伝説がある。

しかし、とんでもばなしとか、都市伝説では片付けられない奇妙な一致、証拠が数多くある。

南光坊天海とは

…家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。

比叡山から江戸へ出た。

絶大な権力を持ち 将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。

様々な学問に加え 陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・

日光東照宮や 上野の寛永寺を創建し、
江戸の町並み(都市計画)を練るなどして

107歳の長寿で他界したと云われている。

・光秀が築城した亀山城に近い「慈眼禅寺」には 光秀の位牌と木像が安置されている。
南光坊天海が 没後に朝廷から贈られた名前(号)は「慈眼大師」。

大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということか。

・南光坊天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の本拠地であり、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(まで建っている。

明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。

・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。

・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。

・比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。

日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠は長寿院から移転。同院に拓本もある。

・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤利三は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような人選。

まして家光の母は 信長の妹お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤と光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。

・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのわ天海。

なぜ徳川の聖地に明智の名があるのか?

・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵紋がいたる所にあるが、なぜか入口の陽明門を守る2ついの座像(木像の武士は、袴の紋が明智家の「桔梗紋。

しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。

寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。

また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。

なぜ徳川を守護するように 明智の家紋が密かに混じっているのか。

・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。

山崎合戦後、“光秀”が比叡山に出家したのも合点が行く。合戦で、一族、家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養したかったのだろう。

また比叡山の方も、天魔・信長を討ってくれた英雄を手厚く迎えた

“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深だ「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。

大御所が初対面の相手と 人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くしたという

天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないから。

晩年の秀吉は 甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり、朝鮮侵略を行なうなど、狂っていたので、天海は信長の悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし 家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したと推察できる。

出典【 あの人の人生を知ろう~明智 光秀 】

▲参考『やりすぎ都市伝説』 ⇒ 徳川家康の背後にいた男の正体

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