長編 ミステリー

【最新学説Ver.】『明智光秀と天海僧正は同一人物説』を裏付ける圧倒的な根拠!知られざる謎の生涯とその秘密【ゆっくり朗読】3800

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明智光秀:知られざる謎の生涯とその秘密

出典【あの人の人生を知ろう~明智光秀

現在の岐阜県可児(かに)出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。
はじめは斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、道三とその子・斎藤義龍(よしたつ)の争いが勃発した際に、道三側についたことから明智城を義龍に攻撃され、一族の多くが討死した。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。
※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。
しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。
1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。
1566年(38歳)、13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。
●夢を抱いて信長のもとへ~この男に賭ける!
足利義昭は幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は朝倉氏に見切りをつけて、桶狭間の戦以来、勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。1567年、義昭に見込まれた光秀は付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。天下を狙う信長にとって足利家が手駒になるのはオイシイ話。
さっそく翌年(1568)に信長は義昭を奉じて上洛し、14代足利義栄を追い出して15代将軍義昭を擁立した。
40歳の光秀は、義昭の将軍就任を見届けて万感の思いだった。光秀は朝倉家で「鉄砲撃ち」をしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、これで恩が返せたと思った。
こうして光秀は、信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。
光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人。京都に入った光秀は、朝廷との交渉役となって信長を支え、積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。そして秀吉をはじめ重臣4人で京都奉行の政務に当たった。
注目すべきは、まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。いかに信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたかが分かる。しかし、間もなく光秀が苦悩する事態に。
1570年(42歳)、信長は義昭のことを最初から操り人形と思っていたので、『書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること』『天下のことは信長に任せよ』など脅迫的な書状を送り約束させる。信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は影響力を排して自立したいと熱望するようになり、諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促した。この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長勢に回る。6月、『姉川の戦い』。浅井・朝倉軍VS織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れず。この凄惨な戦いで姉川は水が真っ赤に染まったという。光秀にとって朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。それも、ほんの3年前の事だ。非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。
※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀42、信長36、秀吉34、家康28(若い)1571年7月、光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件だった。光秀は初めて自分の城を持っただけではない。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ(NO.2の秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。光秀の喜びは計り知れない「織田に来て良かった…」。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。
●信長、「天魔」となる
9月、信長の家臣団は思わず耳を疑い、それが“本気”と知って青ざめた…「(中立を守らぬ)比叡山を焼き払え」というのだ。しかも、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も皆殺しにしろという。仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩じゃ」と殺戮を厳命。叡山に顔見知りが多くいた光秀は抗議する「確かに堕落した僧侶もいますが全員ではありません。真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」。信長は完全無視。家臣は信長の命令に逆らえるはずもなく(さもないと自分が斬られる)、織田軍は延暦寺を襲った。最澄による開山から約800年。叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され、犬までが殺されたという。この焼き討ちは4日間続いた。諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は天魔の変化である」と糾弾した。(“なんてことだ…”光秀謀反10秒前)「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。光秀は義昭直属の幕臣として、「今の信長公には絶対に勝てませぬ」と恭順するよう何度も説得したが、衝突は避けられぬことを悟る。同年暮れ、ついに義昭に暇を請い幕府を去った。
1572年、信長が最も恐れていた戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で家康を軽くひねり潰し、愛知まで迫る。1573年(45歳)。正月、義昭はほくそ笑んでいた。「フフ…信長包囲網は完成した。信玄が来れば信長も終わりだ」。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には“闘神”上杉が無傷で控えていた。3月、「信玄接近中」の知らせに舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告する。ところが翌月、信玄が病死!7月、義昭が立て篭もる城への攻撃に、光秀も加わるよう命じられた(これは辛い)。大軍に攻められ義昭は降伏。さすがに信長も将軍は斬らなかったが、京から追放した。ここに237年続いた足利政権は終焉を迎えた。光秀が身を粉にして復興させた室町幕府は主君信長の手で滅亡した。(“私の努力は何だったのだ…”光秀謀反9秒前
8月、信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。浅井長政は信長の妹お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。同年、信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事“改元”を命じたのだ。一人の戦国武将が元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺される(天皇が死ねば自動的に改元される)と思い震え上がった。そして年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は幕府を滅ぼしたこの年を“元年”にしたかったのだろう。
数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。そしてなんと、正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記す。天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。
●信長、暴走止まらず…!
1574年、信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かす。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども、祝い酒じゃ!」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧された黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨!信長はその頭部を割って裏返し、これに酒を注いで呑めと言う。しかも、光秀の前に回されたのは朝倉氏。「どうした光秀、呑めんのか」「こ…これは、そ、それがしの、かつての主君であり…」。信長はこういう悪趣味を強要する一面があった。“信長公は…狂っている!”。(“この男は危険すぎる…”光秀謀反8秒前)実際、比叡山の焼き討ち以来、「天魔」「魔王」と呼ばれるほど信長の残虐度は加速し、狂気を帯び始める。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちである。土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。
※信長は4年前に伊勢の一向衆に愛する弟・信興を殺され、怨みまくっていた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がった。信長最悪の殺戮は越前で起きた。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆と認定し、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は信長に届けられた首の数だけでも12250とされ、総計4万人にのぼるという(うち3万は信長が越後に入って僅か5日間で殺されている)。信長は手紙にこう記した「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」。
※越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。(“これは人間のすることではない”光秀謀反7秒前)1575年5月(47歳)、信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕。射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。翌月、光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始。10月、四国の長宗我部元親から光秀に書状が届く。元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、「仲介者になって欲しい」と心頼みにしてきたのだ。頼られると弱い光秀は「承知した、安心なされ」。信長は「信」(長宗我部信親)の一字を与え、四国において元親が戦で手に入れた土地を保証すると伝えた。1576年、信長は安土城に入城(城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる)。4月、大坂・石山本願寺の攻略戦(天王寺砦の戦)にて信長は鉄砲で足を撃たれる。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で信長は陥落に10年かかった。光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。(“やはり公は他の腑抜け大名とは違う”謀反8秒前に戻る
※この年、光秀は重い病を患い、自身は快復したものの妻煕子(ひろこ)が看病疲れにより他界してしまう。20代の頃から苦楽を共にした愛妻の死に光秀は悲嘆し、妻が眠る近江坂本・西教寺を手厚く庇護した。現在の同寺の山門は坂本城から移築されたもの。1577年、光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀(ひさひで)を信忠(信長の子)と共に攻略。久秀は2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺し」となるはずだが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」を交換条件に命を救うと提案した。久秀は主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちして大仏の首を落とした男。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。ルール無用っぷりに信長はウマが合うと思ったのだろう。久秀は織田軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死、天守を吹っ飛ばした。
●光秀奔走/されど命は救えず
1578年(50歳)、3月に上杉謙信が急死。これで一気に信長は天下取りに近づいた。翌月、信長は「もう朝廷の力など必要なし」と右大臣の官職を放棄。8月、光秀の三女・玉子(ガラシア)が細川忠興に嫁ぐ。忠興は光秀の朝倉時代からの盟友・細川藤孝の息子だ。11月、今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子。村重は信長配下の勇将だが、彼の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚し窮地に陥った。信長が詫びを聞き入れるとも思えず、「どうせ腹を切らされるなら反逆を」と謀反を起こし籠城した。つまり、村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返したのだ。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は1年間の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げていった(毛利にいる足利義昭とも連絡を取っていた)。信長は村重を対毛利の主要武将として考えていただけに、よりによって毛利へ寝返ったと聞いて激怒。裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を4件の家に閉じ込めて焼き殺した。助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀。彼のもとに「拙者の命と妻の命を引き換えに」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情けを」と信長に取り次いだが、なんと彼らは夫婦共に処刑され、光秀は絶句した。(“公には慈悲という心がないのか…!”再び謀反7秒前
※荒木村重はその後自嘲して「荒木道糞(どうふん)」と名乗る。秀吉に拾われ、利休の弟子(利休七哲)となる数奇な運命を送った。1579年、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野秀治を下して畿内を平定した。しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。怒った波多野の家臣達は光秀の母を磔にした。(“母上…申し訳ありませぬ!”光秀謀反6秒前
同年、信長は家康の妻&長男信康が武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じた。これは信康の嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇で実際には無実だった。しかし、家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺すことに(この件で「家康は光秀以上に信長を恨んでいた」とする歴史家もいる)。
●戦国のリストラ断行
1580年(52歳)、10年の長きにわたった「石山合戦」が終結。本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。戦後処理が一段落すると、信長は家臣団の“リストラ”を断行した。たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。対象となったのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人。林通勝の直接の“罪状”は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、通勝が弟の信行を支持したこと。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が…明日は我が身だ」「30年忠勤に励んでも家臣(佐久間)に情をかけぬのか…」と衝撃を受け、戦々恐々となる。(光秀謀反5秒前?)※なぜ「5秒前」に“?”がつくかと言えば、この事件で信長の光秀への高評価がハッキリしたから。例えば本願寺攻めを担当した佐久間父子に突きつけた通告文はこうだ。
・確かに本願寺は強敵だが、攻めることも調略もせず、無駄に時間を浪費した。
・私は家督を継いで30年になるが、貴殿の功名を一度も聞いたことがない。
・ケチで欲が深く、有能な家臣を召抱えないからこうなるのだ。
・武力が不足していれば、調略するなり、応援を頼むなり、何か方法があろう。
・それにひきかえ、丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関らず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家もまた右に同じ。
・どこかの強敵を倒してこれまでの汚名を返上するか、討死すべし。
・いっそのこと父子共ども髪を剃って高野山に移り住め。注目すべきは光秀が単純に褒められているだけではなく、その順位だ。無数の家臣がいる織田家にあって、光秀は筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興&勝家と続いている。信長の光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。ただしこの書状は信長の自筆で直接佐久間父子に届いているので、光秀は文面を見ていない可能性が高い。(本能寺まであと1年10ヶ月)1581年(53歳)、正月に光秀は坂本城で連歌会やお茶会を主催している(光秀は連歌をこよなく愛し、24回の催行が確認されている)。2月、信長は京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、“覇王信長”の力を天下に見せ付けた。信長はわざわざ宮廷の側に430mX110mの大通りを造って、“朝廷など一捻りじゃ”と軍事的圧力をかけた。光秀はこの重要行事の運営を任される栄誉を授かり、見事この任務を全うする。ここにも信長の光秀に対する満幅の信頼が見て取れる。(“信長公は私を認めて下さっている…!”光秀謀反6秒前に戻る)信長は荒木村重の一族皆殺しから2年を経てなお怒りが収まらず、旧家臣を探し出しては斬っていた。8月、高野山が村重の残党をかくまっていたとして、高野山の僧侶を数百人も虐殺する。(“叡山に続き高野山までも…酷い…”再び謀反5秒前
同年、一揆の鎮圧で人口10万の伊賀に4万の兵を送り、ここでも大殺戮。
※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀53、信長47、秀吉45、家康39
●運命の年、1582年~『神格化宣言』
そして、歴史に残る1582年の幕が開ける。3月(本能寺の3ヶ月前)、光秀は甲斐征討に従軍。武田勝頼は「長篠の合戦」以後も抵抗していた。迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するよう進言したが、勝頼はこれを却下。最期は部下の裏切りにあい自刃した。勝頼をいよいよ追い詰めた時に光秀が感じ入って「我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」と激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け諸将の前で恥をかかせた。
戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜(かいせんじょうき)は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。(“死者を弔ったから殺すとは鬼の所業だ…”光秀謀反4.5秒前
※国師は天皇の師。天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないということ。信長が国司を焼き殺したのは比叡山に続いて2度目。4月、信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かう。往復で80km以上あり、城の侍女たちは信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城はパニック(原文には「仰天限りなし」とある)。本丸で勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、一部の者は城下町でショッピングしたり桑実寺にお参りに行っている。信長の癇癪玉が炸裂。外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにて、彼女達の助命を願った桑実寺の長老まで一緒に斬殺した。(“敵兵を斬るならともかく安土の侍女を…狂気だ”光秀謀反4秒前)5月7日(本能寺まで26日)、長宗我部元親は引き続き光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、信長は元親との約束を撤回して『四国征討』を決定する。総大将は三男・信孝。長宗我部に対して「安心なされ」と言っていた光秀のメンツは丸潰れになった。しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹。(“武士に二言なし!”光秀謀反3秒前
※斎藤利三(としみつ)は元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。「光秀よ、利三を一鉄に返してやれ」「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」「わしの命令が聞けぬのか!」。信長は立ち上がって光秀の髪を掴むと床の上を引きずり回し、「聞けぬのか!聞けぬのか!」と廊下の柱に何度も頭を打ちつける。「き…聞けませぬ…」。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため秀吉に斬首された。この利三の娘・福があの春日局だ。春日局は父を討った豊臣家が大坂の陣で滅亡し、さぞかし嬉しかったろう。5月12日(あと21日)、信長は自身の誕生日に『神格化宣言』を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを“冒涜的な欲望”と記している。具体的には、安土城内に巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。信長が命じればただの石が神になるのだ。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、神仏を拝まず信長を拝めと朝廷にも命じてきた。これらは朝廷の宗教的権威への挑戦であり、目に見える形で自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。
※NHK『英雄の選択』によると、最新発掘調査により、安土桃山城の天守閣の側から天皇のすまいである“清涼殿”の建築跡が見つかった。都にある清涼殿と同じ構造であり、信長は安土に帝を迎え、天守のてっぺんから眼下の皇居を見下ろすつもりだったようだ。安土を訪れた諸武将は、建物の配置からも、朝廷をひれ伏せさせる信長の絶対権力を理解したであろう。信長は総見寺に“信長を拝めばこんな御利益や功徳がある”と木札を掲げた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。信長は「神」だから、国師や比叡・高野山の僧を虐殺しても平気なのだ。
…狂っている。信長が自身を「神」と言い出したことで、朝廷はいよいよ自分たちが滅ぼされると恐れただろう。「神」は2人もいらないからだ。ここに至り、朝廷は光秀に接近し、信長を葬り去るよう命じたと考えるのは容易に想像できる。かつて信長に上洛を促した光秀もまた、「私がこの怪物を育てた以上、この手で始末するしかない」と責任を感じ、自分一人が反逆者の汚名を被ることで「狂気」の幕引きを考えていたのかも知れない。5月15日(あと18日)、家康が安土城を訪れる。事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から援軍要請が入る。現在戦闘中の岡山・高松城の救援に毛利の大軍が上って来るというのだ。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。家康はこの後、「変」の当日まで京や堺の見物で関西にいた。
※この接待に関しては、入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いたとか、宴に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説もあり、これを謀反の理由にする歴史家がいるが、自分は否定的。光秀はそんな理由で主君を討つ小物ではない。5月21日(あと12日)、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え」「お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」、そんな激励のメッセージだったのだろう。これまでの重用ぶりを見ても、“武勇を誇る家臣は幾らでも交換がきくが、光秀は光秀であり、代わりはない”と誰よりも認識していたはずだ。しかし信長の横暴ぶりを見続けた光秀は、もう前向きに考えることが出来なかった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫~滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよとは…。(“もはや、公にはついて行けぬ”光秀謀反2秒前●あえて謀反者となり「天魔」を討つ5月28日(あと5日)、坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。
『時は今 雨が下(した)しる 五月哉』
“時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」。(光秀謀反1秒前)
これに出席者の歌が続く。
『水上まさる、庭の松山』西ノ坊行祐(僧侶最高位)
“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)
『花落つる、流れの末をせきとめて』里村紹巴(連歌界の第一人者)
“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい
『風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮』大善院宥源(光秀の旧知)
信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。光秀はこれらの歌を神前に納める。5月29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、約180名しかいなかった。6月1日(あと1日)、信長一行は本能寺に到着。なぜ本能寺なのか?信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうというのだ。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた(信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなもの。三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう)。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の100人ほどが宿泊した。丸腰も同然だった。
同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。信長が他将と合流すれば暗殺のチャンスはなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍1万3千の馬首が東向きに並んだ「敵は本能寺にあり!」(光秀謀反0.01秒前!)6月2日『本能寺の変』。桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並ぶ。14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田家臣団のトップとして忠節を尽くしてきた。その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして叫んだ。
「撃てーッ!」。“ときの声”があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。(ちゅど~ん!光秀謀反決行!)

※攻撃は6時頃。夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。時代劇では夜襲で描かれているが間違いのようだ。光秀軍の大部分は、自分たちが「家康」を襲撃すると思っていたという説がある。

13000対100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。
午前7時、明智軍の別働隊が二条御所を攻め長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。

本能寺は2時間ほどで鎮火し、信長や蘭丸の遺体が焼け跡から見つかった。謀反人としてのイメージダウンを避ける為に信長の首は晒さず、“遺体未発見”としておき、織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉和尚を呼んで丁重に葬るよう頼んだ。

 清玉和尚が建てた信長の墓(京都、阿弥陀寺)

(後日、秀吉が再三にわたって阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、寺側は最後まで引き渡さなかった)

光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、すぐさま「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。

●そして最後の戦いへ
6月3日、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としている。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。
午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。
安土城に入った光秀は、信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受ける(仏敵・信長を倒した御礼か)。6日、光秀は上杉に援軍を依頼。7日、朝廷から祝儀を受ける。8日、京へ移動。6月9日、信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った藤孝は「自分に武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉した。
光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。
引退。光秀は人々の上に君臨したいという野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。娘ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。10日(「変」から一週間)、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立した。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。※天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。13日、『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。
「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍も駆けつけるだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。しかし、天は光秀を見放した。同日深夜、大雨。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走していたところ、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害した。享年54。その場で2名が後を追って殉死。
14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。15日、坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は城に火を放ち自刃した。
光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。自分の家臣全員を大切にした光秀は、戦死者の葬儀に当たって、侍大将も下っ端の足軽も同額の葬儀費用を出している。足軽だからといって、命の値段に差をつけたりしないのだ。
光秀は無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、「主君殺し」と非難されることも少なくない。雑誌の“好きな英雄ベスト”を見ても、信長が1位になることは多々あれど、光秀がベスト10に入ることは少ない(32位というのも見たことがある…)。しかし、領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのだ。●通説の6つの謀反理由を光秀ファンとして検証・『野望説』…光秀が天下取りを狙った。→細川父子への手紙のように、一連の光秀の言動から考えて野望はあり得ない。却下。
・『恐怖心説』…重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、結果を出さねば追放されると不安になった。→武勲挙げまくりの光秀と比べること事態がおかしい。却下。
・『四国説』…本能寺急襲が四国遠征軍の出港予定日という点に注目。光秀は長宗我部の仲介となって信長と交渉していたので、侍の筋を通す為に謀反したというもの。事実、四国遠征は中止になった→複数原因のひとつとして採用※近年、光秀と四国勢の蜜月を示す書状が発見された。
・『積年の恨み説』…人質となった母の死、丹波・近江などの領地没収の他、細かいことでは、髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられた、酒が呑めずに断ると「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、等々枚挙に暇なし。→恨んで当然。
・『足利義昭黒幕説』…かつての主君・義昭の指令。→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。却下。
・『朝廷黒幕説』…皇室が滅ぼされると思った朝廷から指令→光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、実に説得力あり。そしてこれが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為に、一言も書かなかったことになる。天晴れというほかない。
この朝廷黒幕説は、家康、秀吉の“見てみぬふり”説も生んでいる。朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。信長の死で誰が一番得をしたのか?後に天下人になったこの2人だ。信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。家康には信長に妻子の命を奪われた恨みがある。家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいてる。そして家康は三河へ、秀吉は京都へすぐに戻った。幾らなんでも手際が良すぎる。
じゃあ、光秀は利用された挙句に殺されたのか?僕は“確実に死んだ”と確証が持てない。光秀の死をめぐる秀吉側の記録は矛盾だらけなのだ。

【追記】2014年6月、“本能寺の変”直前に四国の王者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)に送った手紙が岡山で見つかった。その内容から光秀の苦悩が一層浮き彫りになった。元親の正室が斎藤利三の妹ということもあり、元親は良好な関係を信長と保つため光秀を頼っていた。そして光秀の取りなしにより、信長は元親の四国征服を容認してきた。ところが本能寺の変の約1ヶ月前、信長が突然四国制圧を決定し、信長の三男・信孝率いる四国征討軍が派遣されることになった。これにより、元親から信頼されていた光秀のメンツは丸つぶれに。新たに発見された手紙は元親が信長に屈服するというもの。

 新発見、長曾我部元親の書状(2014.6.24 朝日)

本能寺の変が起きたのは、四国征討軍の出港予定日。つまり、降伏の意志を示したにもかかわらず、征討軍が組織されたということ。光秀の胸には「元親は屈服すると言ってきたのになぜ派兵するんだ」という思いがあっただろう。斎藤利三は本能寺に斬り込んだ実行部隊を指揮。結局、信長の死によって出陣は取りやめになった。

●光秀、生き延びたり?~第2の人生「天海」

・大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?また、頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意しておらぬハズがなく、それを土民が見抜けるのか?
・中村長兵衛はどうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか?
・しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった。村の英雄のはずでは?
・秀吉が光秀の首を確認したのは4日後。6月(新暦では7月)の蒸し暑さの中で顔が判別できたのか?
・明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。
・光秀の側で殉死したと伝えられている2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。1人なら何かの偶然としても2人ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友だ。
・光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。

では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという噂が。これを単純にトンデモ話と笑い飛ばせない奇妙な一致が多々あるのだ。
※南光坊天海…家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。比叡山から江戸へ出た。絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並み(都市計画)を練るなどして、107歳の長寿で他界した。

・光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には光秀の位牌&木像が安置されている。南光坊天海が没後に朝廷から贈られた名前(号)は「慈眼大師」。大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということか。
・南光坊天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の本拠地であり、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。
・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。
・比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。この石灯籠は長寿院から移転された。同院に拓本もある。

この石灯篭に「慶長二十年願主
光秀」の文字が彫られている
明智の地・坂本にある
慈眼大師こと天海の墓

※左上の石灯籠の写真は2000年に放送された『世界 ふしぎ発見!』(TBS)から。残念ながら非公開の模様。訪問された方のレポによると、住職さん曰く「確かにここに光秀公が慶長20年に寄贈したといわれる石灯篭がある。元々慈忍和尚廟にあったものを保存のためにここに引き取った。しかし傷みがひどく一般公開にすると倒壊する恐れがあるのでご案内はできない」とのことだそうです。TBSのスタッフはよくテレビ撮影を許してもらえたなぁ。

・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤利三は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような人選。まして家光の母は信長の妹お市の娘・江。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。
・家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平(だいら)」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる)
・山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、山崎の戦いで光秀を裏切った筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
・明智光秀の孫の織田昌澄(光秀四女の子と、信長弟・信行の嫡男信澄との子)は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。
・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。
・家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。
・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋。しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。※追記。この家紋説に関しては、桔梗より織田家の家紋・織田木瓜の方が近いことが後日に判明。詳細はページ末にて。

これらには反論もある。例えば「天海の鎧は大坂の陣で着用したのだろう」や「桔梗紋は他にも太田道潅、加藤清正らが使っている」と言うように。しかし、道潅の桔梗は花弁が細い“細桔梗”であり同じ桔梗でも形が全然違うし、第一光秀以外の桔梗紋の武士が「寅」の上に座って許されるハズがない。一つ二つの一致なら「偶然に決まってる」と笑えるが、土民に竹槍で刺された話から死後の「慈眼大師」の命名まで見渡すと、光秀死亡説が100%真実とは思えなくなる。

山崎合戦後、“光秀”が比叡山に出家したのも合点が行く。合戦で、一族、家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養したかったのだろう。また比叡山の方も、天魔・信長を討ってくれた「英雄」を手厚く迎えた(光秀が石灯篭を寄進したのは彼が世話になった寺)。
時が流れて“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深だ「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。大御所(家康)が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くした」。
※天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないから。晩年の秀吉は甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり、朝鮮侵略を行なうなどトチ狂っていたので、天海は信長の悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したと推察。


『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海がいる!どれほど徳川にとって重要人物かが分かる。

●墓

光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。

※『明智軍記』が光秀の死から百年後に書かれていることを理由に、光秀の母の死、近江・丹波の召し上げ、家康接待事件、武田征伐での欄干事件などを“創作”とする意見もあるが、『明智軍記』には事実も書かれており、「絶対に事実ではない」と断言できるもの以外は当コラムに採用。また「叡山焼き討ち」に関しても、“光秀が周辺土豪に根回しをした書状があるから反対説は嘘”という歴史家がいるけど、根回し(事前通告)をせねばさらに事態が混乱する訳で、それをもって「反対してない」と決め付けるのはどうか。
※光秀の天下は12日間(三日天下ではない)。
※坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋。
※フロイスいわく、信長は毛利を平定し日本66カ国を支配した後は、「一大艦隊を編成して中国大陸を征服し、自分は日本を出てこの国は子に与える」と言い放っていた。戦争は日本で終わらない…光秀でなくとも、戦続きで疲れ切った家臣達は、目の前が真っ暗になっただろう(これも謀反の原因に加えて良いかもしれない)。

出典【あの人の人生を知ろう~明智光秀

▲関連コンテンツ ⇒ 徳川家康の背後にいた男の正体

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