人の女房を山の神という理由としては、いろはの中ではヤマの上がオクだからなどと馬鹿げた説明はすでに多い。或いは里神楽の山の神の舞に、杓子を手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや循環論法の嫌いがある。何の故に山の神たる者がかくのごとく、人間の家刀自の必ず持つべきものを、手草にとって舞うことにはなったのか。それがまず決すべき問題だといわねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であって、最も敬虔に山神に奉仕する者が、これを製して平野に持ち下る習いではあったが、ただそれのみでは神自らこれを重んじ、また多くの社においてこれを信徒に頒与するまでの理由にはならぬ。岐阜県の或る地方では以前は山の神の産衣と称して長さの六七尺もある一つ身の着物を献上する風があったというが、今はいかがであろうか。これに対しては子育ての守として、巨大なる山杓子を授けた社もあったという。越前湯尾峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小児安全の祈祷を含むものが多い。山と女性または山と産育というがごとき、一見して縁の遠そうな信仰が、かつてその間に介在しなかったならば、とうてい我々の家内の者に、そのようないかめしい綽名を付与するの機会は生じなかったはずである。
山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀り、禰宜・神主の沙汰はない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎くとすれば、すなわち神の名を大山祇命、もしくは木花開耶姫尊といい、稀にはその御姉の岩長姫命とも称えて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の習わしである。しかもこれは単に山神が或る地では男神であり、また他の地方では姫神であったことを語る以外に、いささかも信仰の元の形を、跡づけた名称ではないのである。公認せられない山神の久しい物語には、今はおおよそ忘れたからよいようなものの、なかなかに尊き大山祇の御名を累すべきものが多かった。木樵・草苅・狩人の群が、解しかつ信じていた空想は粗野であった。それを片端から説き立てることは心苦しいが、わずかに山の神に産衣を奉納したという点だけを考えてみても、自分たちはこれを岩長姫の御姉妹に托することの、由なき物好みであったことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉の大河内という部落に一泊して、宿主の家に伝えた秘伝の「狩之巻」なるものを見せてもらったことがある。その一節の山神祭文猟直しの法というのは、大よそ次のごとき素朴なる神話であった。不明の文字があるから、むしろ全文を書留めて置く方がよいと思う。
一、そも/\山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来にておはします。観世音菩薩の御弟子阿修羅王、緊那羅王、摩※羅王[#「月+侯」、U+26788、188-1]と申す仏は、日本の将軍に七代なりたまふ。天の浮橋の上にて、山の神千二百生れたまふ也。此山の御神の母御名を一神の君と申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温めず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝が持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう/\勿体なき御事也。此割子と申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未満の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖の振合にも、不浄の日をきらひ申す。全く以て参らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の猟師に又行逢ひ、汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹を温めず。山の割子を得さすべしと乞ひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫にては、産をしては早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢の物をきこしめせとてさゝげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞(開?)かせん。是より丑寅の方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合に、りう三つを得さすべし。猶行末々たがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令。敬白。
右の話が天つ神の新嘗の物忌の日に、富士と筑波と二処の神を訪れて、一方は宿を拒み他方はこれを許したという物語、巨旦将来・蘇民将来の二人の兄弟が、款待の厚薄によって武塔天神に賞罰せられた話、世降っては弘法大師が来って水を求めた時、悪い姥はこれを否んで罰せられ、善き姥は遠く汲んでその労を報いられたという口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人もこれを認め得る。かりに山の神の母に托した物語が日向ばかりの発明であったとしてもその意味は深いと思った。しかるについ近ごろになって、佐々木君の『東奥異聞』には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口伝となって残っていたことを報告している。羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、一方は忌を怖れてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭がただの女性でないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万治磐司といい、磐司がひとり血の穢れを厭わず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。
猟師は船方などとは違い、各自独立した故郷があって、互いに交通し混同する機会は決して多くない。それが奥州と九州の南端と、いつのころからかは知らぬがこれだけ類似した物語を伝えているのは必ず隠れた原因がなければならぬ。その原因を尋ね求めることは、今からではもうむつかしいであろうか否か。自分の知る限りにおいては、同じ古伝の破片かと思うものが、中部日本では上古以来の北国街道、近江から越前へ越える荒乳山にもあった。『義経記』巻七に義経の一行が、この峠を越えなずんで路の傍に休んだ時、アラチという山の名の由来を、弁慶が説明したことになっている。今の人が聴けば興の覚めるような話だが、加賀の白山の山の神女体こうのりゅうぐうの宮、志賀の辛崎明神と御かたらいあって、懐姙すでにその月に近く、同じくはわが国に還って産をなされんとして、明神に扶けられてこの嶺を越えたもう折に、にわかに御催しあって、山中において神子誕生なされた。荒血をこぼしたもうによって荒血山とはいうとある。『義経記』全篇の筋とは直接の交渉なき插話だから、作者の新案とは考えられぬ。多分はこの書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられていた口碑かと思う。しかも猟人の神を援助した話は、ここではこれと結びついていた痕跡がない。二国に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行き逢いたもうということは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今なお土地の民はこれを語り伝えている。それと各地の道祖乢の驚くべく粗野なる由来記とは、もちろんいずれが本、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあったので、従って深山の誕生というがごとき荒唐なる言い伝えも、成立ちうる余地は十分にあった。ただ記録以前にあっては話し手の空想がわずかずつ働いて、始終輪廓が固定しなかったというのみである。
例えば浄瑠璃の「十二段草子」は、ほとんと『義経記』と同じころに今の形が整うたものかと思うのに同じ話がもう別様に語り伝えられ、志賀の辛崎明神を志賀寺の上人すなわち八十三歳で貴女に恋慕したという珍しい老僧の後日譚にしてしまった。その時京極の御息所は年十七、上人三たびその御手をとってわが胸に押し当てたので、すなわち懐胎なされたというのは、同じ近江国手孕村の古伝の混淆であるが、やはりまた荒乳の山中にして産の紐を解きたもうといい、取上げたる若子は面は六つ御手は十二ある異相の産児にして、ただちに都率天に昇り住したまい、のちに越前敦賀に降ってけいたい菩薩と顕れ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。もちろんこの通りの話が一度でも土地に行われていたわけではなく、単に愛発の関が上古以来、北国往還の衝にあったために、他の辺土に比べてはこの口碑が一層弘く、かつ一層不精確に流布したことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が坂田公時の母であり、これを山中に養育したという話が、特に相州足柄の山に属することになったのも、また全然同じ事情からであろうと思う。江戸時代中期の読み本として、『前太平記』という書物が世に現れるまでは、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山でなかった。信州木曾の金時山などでは、現に金時母子の棲んだという巌窟、金時が産湯をつかったという池の跡のほかに、麓の村々の石の上にはこの怪力童子の足跡なるものがいくらもあって(『小谷口碑集』)、むしろ山姥が自由自在に山また山を山巡りするという、古い評判とも一致するのであるが、これを頼光四天王の一人に托するに至って、足柄ばかりが有名になったのみならず、前後ただ一度の奇瑞のごとく解せられて、かえって俗説の遠い由来を、尋ねる途が絶えようとするのである。
『臥雲日件録』などを読んでみると、山姥が子を生むという話は少なくとも室町時代の、京都にもすでに行なわれていた。しかもおかしい事には一腹に三人の四人も、怖ろしい子を生むというのである。従ってそれが山神の産養いという類の猟人等が言い伝えと、元は果して一つであるか否かも、容易に決断することはできぬのだが、山姥の信仰が今ほど雑駁になった上はいたしかたのないことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留めている。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするそうでといっていた。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供をつれて時々はこの岩の上にきて、焚火をしてあたらせるのを見たと称してこの名がある。遠州奥山郷の久良幾山には、子生嵶と名づくる岩石の地が明光寺の後の峯にあって、天徳年間に山姥ここに住し三児を長養したと伝説せられる。竜頭峯の山の主竜筑房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祀られるのみか、しばしば深山の雪の上に足痕を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。『遠江国風土記伝』には平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐にきたと誌してはあるが、のちに和談成って彼らの後裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。
山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつのころよりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、なんと本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えてきて、魔障盗賊を退ける目的の外に出なかった。今こそ狼は山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうか、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束ない口碑の中などに、たどればこれを尋ね出すことができるわけである。山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族だけに対しては、産見舞という慣習が近頃まであった。遠江・三河には限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場処があった。いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。ただし果して狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。津久井の内郷などでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎や雉子の類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、秩父の三峯山では今もって厳重の作法があって、これを御産立の神事というそうである。『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属子を産まんとする時は、必ず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみこれを聴くことを得べし。これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎衣冠して、御炊上げと称して小豆飯三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。その地に注連を繞らし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。
しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるをえなかったことを意味するかと思う。狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を劫かしたという話は西洋にも弘く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持の女房がにわかに産を催し、夫が水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬み殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や厳があって、しばしば祟りを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。
ただし実際この問題はむつかしくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって弘くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵ではなかったかということである。日向の椎葉山の「猟人伝書」に、山神の御母の名を一神の君と記しまたは安芸と石見を境する亀尾山の峠において、御子を生みたもうと伝うる神が、市杵島姫命であったというのも、自分にとっては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子とともにあるときは、その子の名を小市ともまた市太郎とも伝えていた。代を重ねて神を代表する任務を掌っているうちに、次第にわが始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さえあったのは、言わば日本の固有宗教の一つの癖であった。故に公の制度としては斎女の風は夙に衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧しい少女が、或いは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することをえなかったのかと思う。信仰圏外の批判をもってすれば、これを精神疾患の遺伝ともいうことができるが、平和古風の山村生活にあってはまったく由緒ある宗教現象の一つであった。ことにまた深山の深い緑、白々とした雲霧の奥には、しばしばその印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永くのちのちまで潜んでいたのである。
【柳田國男】山の人生:19【青空文庫・ゆっくり朗読】
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