ただし山中においては、人は必ずしも山人を畏れてはいなかった。時としてはその援助を期待する者さえあったのである。例の橘氏の『西遊記』にもよく似た記事があるが、別に『周遊奇談』という書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたという話を載せている。どのくらいまでの誇張があるかは確かめがたいが、まるまる根のない噂とは考えられぬのである。
豊前中津領などの山奥では、材木の運搬を山男に委託することが多かった。もっとも彼ら往来の場処には限があるらしく、里までは決して出てこない。いかなる険阻も牛のごとくのそりのそりと歩み、川が深ければ首まで水に入っても、水底を平地のようにあるいてくる。たけは六尺以上の者もあって、力が至って強い。男は色が青黒く、たいていは肥えている。全身裸であって下帯すらもないが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。ただし女は時に姿を見せるのみで出て働こうとはしない。そうして何か木の葉木の皮ようの物を綴って着ている。歯は真白だが口の香が甚だ臭いとまでいっている。労賃は握り飯だとある。材木一本に一個二本に二個。持って見て二本一度に担げると思えば、一緒にして脇へ寄せる。約に背いて例えば二本に握り飯一つしか与えなかったりすると、非常に怒って永くその怨を忘れない。愚直なる者だと述べている。
『西遊記』にいうところの薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰って欣然として運送の労に服したが、もし仕事の前に少しでも与えると、これを食ってから逃げてしまう。また人の先に立って歩むことを非常に嫌う。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奥の寺などに入ってきて、食物を盗み食うことがある。ただし塩気のある物を好まぬといっている。以上二種の記録は少しずつの異同があり、材料の出処の別々なることを示している。これ恐らくは信用すべき一致であろうと思う。
同じ『周遊奇談』の巻三には、また秋田県下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。ただし著者自分で見たという点が安心ならぬ故に、特に原文のまま抄出して置く。
「出羽国仙北より、水無銀山阿仁と云ふ処へ越ゆる近道、常陸内と云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭焼小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豊前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々其小屋へ食事などの時分を考へ来るとなり。飯なども握りて遣はせば悦びて持ち退く。人の見る処にては食せず。如何にも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ/\立廻りあるくばかり也。尤も悪きことはせず。至つて正直なる由なり。此処にては山女は見ず。又其沙汰も無し」。
山男はまた酒がすきで酒のために働くという話が、『桃山人夜話』の巻三に出ている。「遠州秋葉の山奥などには、山男と云ふものありて折節出づることあり。杣・山賤の為に重荷を負ひ、助けて里近くまで来りては山中に戻る。家も無く従類眷属とても無く、常に住む処更に知る者無し。賃銭を与ふれども取らず、只酒を好みて与ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、唖を教ふる如くするに、その覚り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山気の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同国の白倉村に、又蔵と云ふ者あり。家に病人ありて、医者を喚びに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何処よりとも無く出で来りて又蔵を負ひ、屏風を立てたるが如き処を安々と登りて、医師の門口まで来りて掻き消すが如くに失せたり。又蔵は嬉しさの余りに之に謝せんとて竹筒に酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事古老の言ひ伝へて、今に彼地にては知る人多し」(以上)。又蔵が医者の家を訪れることを知って、その門口まで送ってくれたという点だけが、特に信用しにくいように思うけれども、酒を礼にしたら悦んだということはありそうな話であった。