少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、これが本人ただ一人の心の迷から出たものと解してしまうことが昔はできなかった。一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って行き、また多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然である。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつてそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない。問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖に基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。
しかも自分たちの見るところをもってすれば、右の問題の分堺線とても、時代の移るにつれて始終一定していたわけでもないようである。例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁に風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁僧正のように、鷲に取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀には命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。
鎌倉期の初頭あたりを一つの堺として、その鬼がまた天狗にその地位を委譲したのは、東国武士の実力増加、都鄙盛衰の事情を考え合わせても、そこでなんらかの時勢の変化を暗示するものがあるように思う。その天狗の属性とてもゆくゆく著しく変遷して、もとより今をもって古を推すことはできぬが、鬼の方にもやはり地方的に、または時代に相応した特色ともいうべきものがあったらしいのである。例えば在原業平の悠遊していたころには、鬼一口に喰いてんけりといったが、大江山の酒顛童子に至っては、都に出でて多くの美女を捕え来り酌をさせて酒を飲むような習癖があったもののごとく、想像せしめた場合もないではなかった。天狗ばかりは僧形であっただけに、感心に女には手を掛けないようだと話がきまると人は別にまた山賊の頭領という類の兇漢を描き出して、とにかくにこの頻々たる人間失踪の不思議を、説明せずにはおられないようであった。しかも実際は小説・御伽草子・絵巻物以上に的確に真相を突留めることは、求めたからとてできることではなかった。
別離を悲しむ人々の情からいえば、いかなる場合にもまだどこかの谷陰に、活きて時節を待っているものと、想像してみずにはいられなかったでもあろうが、単にそのような慾目からでなくとも、現実に久しい歳月を過ぎてのち、ひょっこりと還ってきた先例もあれば、またたしかに出逢ったという人の話を、聞きだした場合も多かったのである。単に深山に女の姿を見たというだけの噂ならば、その他にもまだいろいろと語り伝えられていた。たとえそれがわが里でいなくなった者とは何の関係もなく全然見ず知らずの別の土地の事件であっても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞たる別世界にも、なお何か人間の活きて行く道があるらしいという推測は、どのくらい神隠しの子の親たちの心を、慰めていたかわからぬので、それがまた転じてはこの不思議の永く行われ、気の狂うた者の自然に山に向う原因ともなったのは、是非もない次第であった。
かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘く求めてみればみるほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。例えば天狗とは一体どんなものかと聞いてみるとき、今日誰しも答えるのは鼻のむやみに高いことであるが、これとても狩野古方眼が始めて夢想したという説もあって、中古には緋の衣に羽団扇などを持った鼻高様は想像することができなかったのである。そのうえに何々坊の輩下という天狗だけは、口が嘴になり鼻は穴だけがその左右についている。同じ一類で一方は人のごとく、他方は翼があって鳥に手足を加えたもののごとくなることは、ほとんとありえざる話であるが、人は単に変形自在をもってこれを説明して、しからば本来の面目如何という点を、考えずに済ましていたのである。それなら実際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかというと、中世の天狗はふらりときて人に憑くこと野狐のごとく、或いは左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキのごとくであったが、今は絶えてその類の非難を伝えない。或いは智弁学問ある法師の増上慢が、しばしば生きながら天狗道に身を落さしめたという話もある。平田先生などは特にこの点ばかり、仏者の言を承認しようとしているが、これさえ近世の天狗はもう忘れたもののごとく、むしろしばしば人間の慢心を懲らし戒めたという実例さえあって、自慢を天狗という昔からの諺も、もはや根拠のないものになろうとしている。それというのが時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変っていたからである。書物はこういう場合にはたいていはむしろ混乱の種であった。学者ばかりがひとりで土地の人々の知らぬことを、考えていた例は多かった。なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪はずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。日本で物を買うような理窟には行かなかったのである。天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人・山人ともいって、山男と同一視するところもある。そうして必ずしも兜巾篠懸の山伏姿でなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨りに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった。名称のどこまでも借り物であって、我々の精神生活のこれに左右せられた部分の存外に小さかったことは、これからだけでも推論してよいのである。山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚って、遁げようと思っているななどといいあてるので、怖しくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣ってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾かれたなどと語っている。その土地次第でこういっても通用したのである。オニなども今では角あって虎の皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者をさいなむ者のごとく、解するのが普通になったらしいが、その古来の表現は誠に千変万化でまた若干はこれに充てたる漢語の鬼の字によって、世上の解説を混乱せしめている。しかも諸国の山中に保存せられた彼らの遺跡、ないしは多くの伝説によって考えると、少なくとも或る時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄していたこともあるのである。いずれにしても我々の畏怖には現実の基礎があった。単に輸入の名称によって、空に想像し始めたものではなかったのである。
不在者の生死ということは非常に大きな問題であった。どうせいないのは同じだと、言ってすませるわけには行かなかった。生者と死者とでは、これに対する血縁の人々の仕向けが、正反対に異ならねばならなかったからである。生きている者の救済も必要ではあるがこれは徐ろに時節を待っていることもできる。これに反して死者は魂が自由になって、もう家の近くに戻ってきているかも知れぬ。処理せられぬ亡魂ほど危険なものはなかった。或いは淋しさのあまりに親族故旧を誘うこともあり、または人知れぬ腹立ちのために、あばれまわることもしばしばあった。その予防の手段は仏教以前から、いろいろ綿密に講究せられていたのである。しこうしてその手段は通例甚だ煩わしい。かつ誤まって生者のためにこれを行うときは、その害もまた小さくなかった。故に単なる愛惜の情からでなくとも、一日も早くなんらかの兆候を求めて隠れてもなお生存していることを確めておく必要があったのである。アンデルセンが「月の物語」の初章に、深夜に谷川に降って燈を水に流し、思う男の安否を卜せんとしたインドの少女が「活きている」と悦んで叫んだ光景が叙べてある。普通は生死を軽く考える東洋人が、この際ばかり特に執着の切なる情を表わす理由は、全く死に伴うた厳重の方式があったためで、旅の別れの哀れな歌にも、かつはこの心元なさがまじっていたのである。夢というものの疎かにせられなかった原因もここにある。互いに見よう見えようという約束が、言わず語らずに結ばれていたのである。それが頼みにしにくくなってのち、書置という風習が次第に行われた。神隠しだけはこういう一切の予定を裏切って、突如として茫漠の中に入ってしまうのだが、しかも前後の事情と代々の経験とによって、一応はやや幸福の方の推測を下すことが、存外にむつかしくなかったらしいのである。