今は昔。頃は春。まだ幼稚園に上がる前、初めて田舎へ一人旅をした時の事。
私の田舎は千葉県蓮沼村、九十九里浜の真ん中辺りだ。
今夜到着する母の為に、じいちゃんと裏山へ山菜取りに行く事にした。
子供用の背負いカゴに、ケモノ除けの鈴をばあちゃんに付けてもらう。
それは《すず》と言うより《りん》のような良い音がする鈴で、いつもはばあちゃんが持っている家の鍵に付いている、私の大のお気に入りだった。
春でいっぱいの野山はそれだけで嬉しい。
それに、じいちゃんは物知りだから、また何かいっぱい教えてもらえるような気がして、私はご機嫌だった。
やがて、山菜を採り始めてしばらく経った頃、じいちゃんの姿が見えなくなった。
私のいる所はほんの少しばかり開けて道のようになっているが、周りはぐるっと木々で囲まれており、その向うの様子が分らない。
裏山には何度か来た事があるのだが、この場所には見覚えがない。
でも、大丈夫。大人とはぐれても、そこから動かずすぐに呼子を鳴らせば必ず誰かが見つけてくれる。
そう言聞かされていたから、私は首から提げた呼子を引張り出し、それを口に当てようとした。
その時だった。
牛に似た大きな真っ黒なモノが唐突に現れた。
私との距離は10メートルもない。
きっと、闘牛の横綱牛でさえ、そいつの前では仔牛に見えただろう。
墨のような体。黒光りする二本の少し内側に曲った角。肉色の赤い目。白い泡を吹いた口。
その口元からは牛馬のいわゆる下駄っ歯ではなく、肉食獣の鋭い黄色い牙が覗いている。
そいつが睨んでいるのは私だった……
恐ろしい、攻撃の気持ち、殺気が私に向ってやって来る。
動けない。
呼子はとうに手の中から滑り落ちている。
ヤツが頭を振立て、前脚で地面を掻いた。
来る!?
頭の中で心臓が爆発しそうになり、思わず半歩下がった時、鈴が鳴った。
『リィィィィィィ………ン』
すると、なぜかヤツが地面を掻くのを止めた。
私はなるべくそうっと背負いカゴを降ろし、外した鈴をもう一度鳴らしてみた。
『リィィィィィィ………ン』
ヤツはじいっとこちらを見ている。
余韻の途切れた所でまた鳴らす。
『リィィィィィィ………ン』
『リィィィィィィ………ン』
何度も何度も鳴らす内に、ヤツの攻撃の気持が静まってきたようだ。それが証拠に口元の白い泡がだんだん消えていく。
私は必死だった。早くこいつが消えてほしい、ただそれだけを念じつつ鈴を鳴らし続けた。
『リィィィィィィ………ン』
『リィィィィィィ………ン』
どれほど鈴を鳴らしたか。
ヤツの目が眠たげになってきた。
眠れ眠れ眠れ!消えろ消えろ消えろ!
腕がだるいのを通り越し、そろそろ痛み始めた頃、やっとヤツは目を閉じた。
やった!!
不思議な事に、ヤツが人間のようにこっくりこっくりやる度に、ヤツの体がずんずん地面に沈んでゆく。
……膝、……腹、……喉、……背、……頭。
何でもいい、早く消えろ!
もう腕は鉛のように重いが、私は歯を食いしばって鈴を鳴らし続けた。
『リィィィィィィ………ン』
『リィィィィィィ………ン』
とうとう、ヤツの角が地面の中へ吸込まれるように消えて行った。
が、すぐに止めるとまたヤツが現れそうな気がする。それが恐くて鈴を鳴らし続けた。
それから間もなく、後ろからじいちゃんが私を呼んだ。
「じいちゃん!」
じいちゃんが神様に思えた。
駆けよった私の手をじいちゃんはしっかり握りしめ、ただ「帰ろう」と言った。
一言も言葉を交さず戻って来た私達に、家の前の畑にいたばあちゃんも何事かただならない雰囲気を察したらしく、不安げな面もちで畑仕事の手を止めた。
手だけ洗うと、じいちゃんに連れられて仏間へ行った。
ばあちゃんも後から付いてくる。
「何があった?」
きちんと正座したじいちゃんの前で、私はさっきの出来事を話した。
ばあちゃんは途中から小声でお念仏を唱え始め、ぎゅっと私の体を抱きしめる。
「……じいちゃん、あれは何?」
じいちゃんは少し考え、こう答えた。
「多分、それは大昔から言われている、《うしおに》と言うバケモノに違いないじゃろ。《うしおに》と言うのは、大きな大きな真っ黒けの牛のようなバケモノで、それに出会うた者はほとんど角で突き殺され、バラバラになった死骸が高い木の上に引っ掛けられたり、深い谷底へぶちまけられたりするそうじゃ。
《うしおに》はな、いつどこの山にでてくるか、誰にもわからんのだと。今日は、おまえは助かった、けれどもこの次は助かるかどうかわからん。だからおまえは今後、海、山に行く時は必ず魔除けを持って行け。いいな?」
……以来、ヤツには出会っていない。(もちろん会いたくないが)
でも、背中でばあちゃんの鈴が鳴る度、あの時の事を思い出す。
今もヤツはどこかの山へ姿を現しているのだろうか。
(了)