今年の2月のことでした。
隣県で荷物を積み終え、会社へと戻る道中のことです。時間はすでに23時を回っていました。朝からの雪で路面は轍の跡以外は真っ白な状態で、山間部ということもあり凍結に注意しながら車を走らせていました。私から見て右側は山、左側は歩道とガードレールがあり、50メートル下には渓谷が広がっていました。
軽い登り坂を越えようとした時、首筋あたりに嫌な悪寒が走り、耳鳴りがしてきました。いつも首から下げているお守りを左手で握り、首の後ろにあてがおうとした時です。突然前方に人影が現れました。私の進路上に立ち尽くしているのです。慌ててブレーキをかけたため、タイヤがロックしてスリップし、ハンドル操作がほとんど効かないまま人影へと向かいました。
当たる!そう思った瞬間、すり抜けたような感覚がしました。カーブの出口はやや長い直線になっていたので、車の制御を取り戻し、気持ちを落ち着かせました。何の衝撃もなくすり抜けた人影は男でした。男は作業服のようなズボンに半袖のTシャツを着ていて、冬の真夜中には不似合いでした。一旦広い路側帯を見つけ、念のために車を見て回りましたが、変形どころか傷一つありませんでした。
浮遊霊の悪戯だろうかと勝手に推測し、再び車を走らせました。しかし、一抹の不安がよぎり、再びお守りを握ると、首から下げているお守りの紐が音も抵抗もなく、まるで結び目が自然にほどけたかのようにハラリと力なくお守りから垂れ下がり、再び悪寒が走りました。首筋、首の後ろが引きつるような感覚。耳鳴りと息苦しさが重なり、全身の毛が逆立っていくのを感じました。
前方約50メートルには左曲がりのカーブ。ハンドルをきろうとするが、身体が動かない!金縛りだと理解する頃には、カーブが目前になっており、山側へと車は誘われるように…実際、誘われていましたね。あの男が再び立っていたのです。普通ではありえないほど見開いた死んだ魚のような目、裂けるほどに口を開けている。顔とは反対にスローな動きで誘う手。正直、終わったなと思いました。
そして、要壁と要壁の間の沢、パイプのフェンスをなぎ倒して私と車は突っ込み、物凄い衝撃と頭に激しい痛みを感じると意識を失いました。
後で聞いた話ですが、通りかかった地元の方の通報により私は救助され、病院へ搬送されたそうです。上半身傷だらけで出血がひどく、フロントガラスの割れた所から冷たい沢の水をかぶり、体温も低下していました。搬送先の病院での処置が終わっても、丸三日昏睡状態だったといいます。
話を戻します。
四日目に意識を取り戻した時のことは、はっきりと覚えています。意識の中なのか夢の中なのかはわかりませんが、私はあの男に連れていかれそうになっていました。見たこともない崖の上で、私は崖を背に前に進もうとします。が、あの男が後ろから私を崖下に引きずり込もうとしていました。前にはおそらく私が引きずられてきたであろう跡が続いていました。
「離してくれ!」
私の叫びを無視して、男はただひたすら私を崖下へと引きずろうとしてくる。崖の下が見えてくる。底が見えない真っ暗な闇?その中から無数の手や顔が見える。絶望的な恐怖がこみ上げてきました。
「嫌だ、娘に、妻に会いたい…まだ…死にたくない!」
声の限り叫んで必死にもがく私の左手を、ふいに誰かが掴みました。
「パパ?帰ろう」
何で?と思う間に、娘は小さな手に力を込めて私を引っ張る。私は必死で力を込めて前へと進むが、後ろの男も一段と引きずる力を増してきます。このままでは娘まで引きずり込まれる。
「早く離しなさい、もうパパはいいから!」
何度か言っても娘は頑として聞かない。小さな体に精一杯の力を込めて私を引っ張る。しかし、もう後がない。私は覚悟を決めました。右手で左手を掴む娘の手を振り払おうとした時、その手をまた誰かに掴まれました。
……!?
私は新たな手の主を見上げると、手の主も私を見ていました。あの人だった。前に私が峠で助手席に乗せた女性でした。彼女は私に微笑みました。あの時は悲しく寂しげだった顔が、今回は満ち足りたかのように、淡く輝いているように見えました。
彼女は私の後ろを見ると、「離してください」と柔らかく、しかし力強い口調で言いました。よくわかりませんが、彼女に怯んだのか、男の力が弱くなっていきました。私の中でも不思議と力が満ちてくるような気がし、渾身の力で男を振り払いました。二度と見たくないようなおぞましい憎悪の表情で男だけが落ちていくのが見え、助かったと思った瞬間に、意識の中の私が意識を失いました。
ふっと目を開けると、そこには私を覗き込む妻がいました。
左手に温かみを感じ、視線を移すと、娘が私の手を握ったまま私の手に被さるように眠っていました。私は目だけで周囲を見回し、ここが病室だと理解しました。助かったんだと安堵すると、娘が起きて私に微笑みながら「パパ、おかえり」と言いました。私は泣きそうになりながら左手で娘の頭をやたら撫でつつ、ありがとうとしか言えませんでした。
後で娘が言うには、病室で眠ったら夢であの人に「パパを迎えに行こう」と言われたそうです。娘が助けに来てくれなかったら、私はやはり連れていかれていたのでしょう。
意識を取り戻してから数日後、私は病院のベッドで療養していました。ある晩、ふと目が覚めると病室の窓の外に誰かが立っているのが見えました。薄暗い照明の中、その姿はぼんやりとしていて、最初は誰なのか分かりませんでした。しかし、次第にその姿がはっきりとしてきて、私は息を呑みました。そこには、あの男が立っていたのです。
男は相変わらずの無表情で、死んだ魚のような目をしていました。私は恐怖で身体が動かなくなり、声も出せませんでした。男は窓の外からじっと私を見つめていました。私はどうすることもできず、ただ男を見返すことしかできませんでした。
次の日、私は看護師に昨晩の出来事を話しました。しかし、看護師は私の話を信じてくれず、夢でも見たのだろうと言われました。私は確かに見たのです。あの男が窓の外に立っていたのを。
その晩も、私は再びあの男の姿を見ました。男は今度は窓の中に入ってきて、私のベッドの傍に立っていました。私は恐怖で身体が動かず、声も出せませんでした。男はじっと私を見下ろしていました。私はどうすることもできず、ただ男を見返すことしかできませんでした。
ある日、病院の院長が私の病室を訪れました。
院長は私の話を聞いてくれ、調査を始めることにしました。院長は病院の歴史を調べ、驚くべき事実を発見しました。私が入院している病室は、かつて工事中の事故で亡くなった作業員が運び込まれた場所だったのです。その作業員は、私が見たあの男だったのです。
院長は私にその事実を伝え、供養のためにお祓いを行うことにしました。お祓いの後、男の姿を見ることはなくなりました。しかし、私は今でもあの男の姿を忘れることができません。あの恐怖は、私の心に深く刻まれています。