ねずみの天ぷら
元号がいくつか前の時代のお話。
木樵と炭焼きと猟師を兼業で生活している老人とその弟子の少年が、二人で細々と暮らしていた。
ほんの童子の頃から手伝いを続けていた少年も、もう一人前と認められるようになり、老人は猟の獲物の肉と皮、山菜や茸を麓の集落に売りに出る間、少年は一人で小屋で留守を守るようにと言われた。
初めて一人前の男と認められたようで、少年は多少の不安はあったものの喜び勇んで引き受けた。
老人を見送った少年は、日頃の習慣に従って山道具の手入れをし、薪を拾い、怠りなく日常の仕事を片付けていった。
とはいえ、いつもの老人の厳しい眼が無いことは、まだ幼さの残る少年の心を浮き立たせるには十分で、人様の迷惑にならない範囲での自由を満喫していた。
いつもの決まった仕事を終えた後は、近くの小川で釣りに興じ、小屋に戻っては老人の書物を紐解いてみたり。
そして、その中で一つの話が眼を引いた。
『稲荷神社と鼠の天麩羅』についてだった。
かつて、農耕・穀物の神であった稲荷は、仏教との融合で、豊川稲荷などのダキニ天の考え方なども交わり、狐の姿でも知られるようになっていた。
稲荷神社になぜ油揚げを供えるのか。
豆腐の油揚げは代用品であり、本来は狐にとって最高の好物である鼠の天麩羅である。
だが、それでは処分にも困るため、精進料理など模して豆腐を揚げた。
揚げてあるのですぐには腐らず、お供え終えた後は皆でわけて食べられるため、これが広まった。
これを甘辛く味付けをし、飯を詰めた物が稲荷寿司である。
豆腐の油揚げももちろんだが、本家本元の鼠の天麩羅、できたてのまだ熱いものなどは、狐には命がけでも口にしたいもので、ありとあらゆる手を使ってでも食べに来る。
昔話では、そこで相手に山菜や大物の川魚を捕ってこさせるという笑い話もある。
そんなわけで古来、狐を捕まえる罠には、鼠の天麩羅を餌にするのが定石である。
そう言えば、師である老人も同じような内容をよく言っていた。
美女に化けたり厳つい異人に化けたり、あるいは術にかけて眠らせたりとして、気がつくと、鼠天麩羅は一つ残らず奪われてしまっているとのこと。
少年は悪戯心を抑えきれなくなって起ち上がった。
日が落ちる頃、小屋のすぐ近くの小川のほとりで鍋にごま油を熱していた。
物心ついた頃から山で生活している少年にとって、山鼠を捕まえてくることはさほど難しいものではなく、まるまると太ったものを五六匹選んで、後は逃がしてやり、手早く〆めて、粉を付け、たぎった油に浮かべ始めた。
ぱちぱちと油の弾ける音とともに、ほどなく新しい肉の熱せられる。
意外なほど香ばしい匂いが立ちこめてきた。
もし狐が来なかったら、薬食いということで自分で食べてしまおうかと、少年はくすねてきたどぶろくの徳利を傍らに、一人で笑っていた。
反対側には、魔物除けに刃を紙のように研ぎ澄ました山鉈を置き、さらには煙管と煙草も用意をしておいた。
鼠の天麩羅が色よく揚がる頃には、たっぷりと唾を眉に付けて毛を寝かせて、「ござんなれ」と待ち構えていた。
待つほどもなく、焚き火の届かない闇の奧に、二つ並んだ緑色の灯がちろちろとまたたきはじめた。
少年は気づかぬふりで、香ばしい肉の匂いをふりまく揚げたての鼠の天麩羅を木皿に盛ると、小皿にツユを注ぎ、徳利を引き寄せ、今にも箸を付けるような姿を見せてやった。
「キーッ、キーッ」
枯葉色の毛並みを波打たせ、闇の向こうから狐はしきりに歯をむいて、なにやら怪しいそぶりを見せている。
しっかりと眉を濡らした少年は、狐のあやしのわざにかかったそぶりでぽかんとしてみると、闇の奧から狐が数匹、嬉しげに駆け寄ってきて、木皿の鼠の天麩羅に口を伸ばし
「こらあっ!」
笑いを押し殺した少年の雷のような不意の一喝に、鉄砲に打たれたように飛び上がって、森の奧に逃げ込んでしまった。
少年はひとしきり腹を抱えて笑った後、なおも焚き火のちかくに鼠の天麩羅を置いて、残酷な匂いを立て続けていた。
また、ちろり、ちろりと、闇の奧に緑色の灯火が瞬く。
しきりと首を傾げているようだが、また「キーッ、キーッ」と歯をむいて、前にも増して思念を凝らしたあやしいそぶりを見せ始めた。
笑っていた少年は、焚き火のぬくもりが一時ごとに布団にくるまっているような眠気をもたらしていることに気づいて、さては狐共、眉唾のまじないを破るような熱意でこちらをばかそうとしているな、と思い当たり、山鉈の鞘を払って、眠気を振り払うように目の前を薙いでみせた。
「やまのひとやのつれづれにあげてみたるはやまねずみ
ばかすあやかししるまいかわがなりわいはりょうしにて」
詩吟気取りの戯れ句をわざわざ声高に聞かせてやりながら、白刃を焚き火にきらめかせると、また狐はぽんと森の奧に逃げ込んでしまった。
またひとしきり笑った少年は、酒で少し口を湿らすと、上機嫌で鉈を鞘に収め膝に横たえた。
相変わらず焚き火の側で暖められた鼠の天麩羅は、少年の空きっ腹にも答えるようなよい香りを放っている。
もう狐も来るまいと、少年は箸をとって、一番上の天麩羅をつまみ上げた。
「キーッ、キーッ!」
闇の奧で切羽詰まったような獣のうなり声。
そして、ちろちろと瞬く緑の火は、五、六対にまで増えていた。
なんと根気の良いことと半ば感心しつつ、少年は箸を引っ込めて、もう一度念入りに眉を唾で濡らした。
と、二、三度の瞬きの間に、少年は目の前が白く霞むのに気がついた。
なんと、十歩先も見えないような深い霧が、焚き火の回りを包み始めていたのだ。
「火の側で霧が出るなんぞ」
流石に呆れかえった少年だが、師の煙草入れを取り上げて刻み煙草を煙管に詰めると、焚き火の火を移した。
「キッ」
狼狽したような獣の声に、にやにや笑いを浮かべると、身体を斜に構えて、音を立てて煙草をのみ、ぷかりと煙を夜空へ吹き上げて見せた。
目の前に垂らされていた布が取り去られたように深い霧はぱっと消え去り、四匹ほどの狐が、唖然としてこちらを見つめていた。
「んんっ?」
少年は芝居げたっぷりに音を立てて煙管を打つと、大げさな動作で山鉈の柄を掴んで見せた。
狐たちは鳴きもせず、いっさんに森の奧に逃げていってしまった。
少年は腹が空っぽになるほど夜空に向かって笑うと、ふと狐たちの必死さがおかしくなってきた。
山の恵みで生かしてもらっている我が身と、師が繰り返し教えていたこともある。
こちらの楽しみに付き合ってもらった代金に、半分ほどは渡してやってもいいだろうと思った。
と、その時!
しゅく、しゅく、しゅくと、哀しげな泣き声が木々の合間から聞こえてきて、そこから、すっかりしょげかえった風情の狐が一匹、べそをかきながらやってきた。
まさか正面から姿を現すとは思っていなかった少年は意表を突かれて、それでも用心をとかずに見つめていると、狐はべそをかいたまま人の言葉で泣き続けた。
「いままで、あなたさまを化かしてかすめ取ろうとしてしまって、申し訳ありませんでした。
あなたさまのこしらえられたその若鼠の天麩羅は、わたしたち狐にとっては一生一度のご馳走なのです。
魚や木の実、茸でも、わたくしどもでもってこられるものであったら、なんでも差し上げますから、 どうか一匹だけでもお裾分けを」
渡してやるつもりのところに、しんから困り果てているようすの狐に、流石に少年は酷いことをした気になって、全て渡してやろうかとも思ったが、自分自身も昼間からの働きで腹も酷く空いているし、あと一度だけ困らせてやろうと思った。
それが無理だと降参したら、酒も付けて渡してやろう。
少し考えたが、一番の無理難題を思いついた。
「よしわかった。それじゃあ、俺は独り身で夜が寂しい。若い娘を所望だ」
狐は何も言わずに俯くと、焚き火の光の輪から去って言ってしまった。
もしかして、あまりの難題にすっかり落ち込んでしまってもう来ないだろうか?
それとも、一生一度のご馳走を匂いだけ嗅がせて渡さなかったことで、山の狐ぐるりを敵に回してしまったのだろうか?
流石に戯れ事も過ぎたかと心配になってきた少年が首を傾げていると、かすかな音が森の奧から届いてきた。
『しゃんしゃん しゃんしゃん』
銀の鈴の震える音と共に、ぱらぱらと小雨が一瞬行き過ぎる。
思わず天麩羅をかばおうとした少年は、焚き火の側に白い姿がたたずんでいるのに気がついた。
白の筒袖に白袴、背中までの鴉の濡れ羽色の黒髪に抜けるような色白の、見たこともないような美しい娘だった。
娘はもとより細い眼を線にして微笑む。
「お待たせいたしました。さきほどの狐です。まだ子を産んでいないので、若いつもりなのですが」
少年は跳ねるように起ち上がったまま、あまりのことに動けなくなってしまう。
娘は細い指で、自分の袴の帯をするすると解き始めた。
若者は必死に声を励ました。
「ま、また化かすつもりだろう!」
袴が落ちて、娘はもう一度微笑んだ。
「あなたさまは、ちゃんと眉を濡らしていらっしゃいます」
指が若者の眉を撫でる。
「朝眼が醒めたら、肥溜めにでもつかっているわけか?」
震える声に、娘は首を傾げる。
「あなたさまは、鉈も、煙草も、まだお持ちでいらっしゃいます」
筒袖が細い肩から滑り落ち、桜を貼り付けた真っ白な瓜のような乳房が震えた。
風に押されたように踏鞴を踏む少年を、娘が柔らかく覆い被さった。
「俺は取り殺されてしまうのか?」
泣きそうになった少年に、金色に眼を光らせた娘が艶やかに苦笑する。
「一生一度のご馳走をくださるかたに、そんな無体はいたしません。ただ」
少年の着物をほどいていく手は一対ではなかった。
「あのように焦らされたのですから、少しだけ嬲られるのはお覚悟ください」
少年の回りには、同じように筒袖、白袴姿の娘達が、微笑みながら待っている。
一番年かさの娘が、まだ暖かい鼠の天麩羅の木皿を捧げ持って深々と一礼していた。
数日後、師の老人が戻ったとき、小屋のなかも申しつけていた仕事もいっそうきちんと片付いていたものの、弟子の少年が魂を抜かれたように虚ろな顔をしているのを見て、さては山の神様に魅入られたかと不安になり、井戸端に呼び寄せて、冷水を何倍も頭からかけると、剥いだ着物の下にいくつもの歯形や爪痕が赤く青く残っているのに気づいて、硬い拳骨を降らせたのだった。
深くは追求しなかったが、なんとなく事情はそれで察したようだった。
それからも少年は、炭焼きと猟と木樵の毎日を過ごしたが、師の眼を盗んでは、鼠の天麩羅をことあるごとに作っていた……というお話。
(了)