これは、ある若い男性が体験したとされる話だ。
その日、彼は休日を利用して近所のデパートへ買い物に出かけていた。夕暮れが近づく時間帯で、駐車場には車やバイクがまばらに並んでいる。買い物を終えた彼は、自分のバイクへ向かう途中で、足元に何かが落ちていることに気がついた。それは、スマートフォンだった。誰かの落とし物に違いないと思い、すぐ近くにある警察署へ届けるつもりで拾い上げた。
しかし、その瞬間――ピピピ…と着信音が響いた。画面には「非通知」の文字。少し迷ったものの、これは持ち主本人からの連絡かもしれないと思い、恐る恐る応答する。
「もしもし?」
数秒の沈黙。やがて、低く抑えたような男性の声が返ってきた。
「あ…すみません。この電話、落としてしまったみたいで…」
どこか不自然に間を挟む口調だったが、確かに持ち主らしい。安心した彼は拾った場所を説明し、すぐに来てもらうように伝えた。
「…五分以内に行きます。すみません…」と、素っ気ない口調で言われたため、彼はその場で煙草を一服しながら待つことにした。
だが、五分も経たないうちに再び電話が鳴った。先ほどの男性が道に迷ったのだろうかと思い、すぐに電話を取った。
「もしもし?」
「こちらは○○警察署の○○と申します。」
予想外の名乗りに、一瞬思考が止まる。
「えっと、どういうご用件でしょうか?」と困惑しながら尋ねると、警察の担当者は落ち着いた口調で続けた。
「実は、あなたがお持ちの電話の件でお話があります。この電話はあなたのものではないですね?」
彼は拾った経緯を簡単に説明し、「持ち主が取りに来ることになっています」と付け加えた。だが、警察官は奇妙な言葉を返してきた。
「…その持ち主ですが、昨晩、そこのデパートの前の交差点で交通事故に遭い、亡くなっています。」
彼は耳を疑った。確かに先ほど電話で話した男性は、生きている人間に思えた。だが、警察が言うには、それは不可能だという。
混乱の中、警察官は「ちょうど良いので、電話をこちらに持ってきてください」と依頼してきた。仕方なくバイクを走らせ、近くの警察署へ向かった。
警察署に到着し、受付で事情を説明すると、担当者を呼ぶよう指示される。その間、ロビーのソファに腰掛けて待っていると――また、あのスマートフォンが鳴った。
嫌な予感を覚えつつ、彼は画面を見た。「非通知」と表示されている。恐る恐る電話を取ると、受話口から聞こえてきたのは、再びあの持ち主の声だった。
「ひどいじゃないですか。駐車場で待っててくれるって言いましたよね。」
その声には怒りとも悲しみともつかない感情がこもっていた。彼は震える声で問い返す。
「あなた…本当に本人なんですか?警察は、あなたが亡くなったと言ってましたが…」
持ち主の声は一瞬、沈黙した。そして、かすかに笑うような声が聞こえた。
「やっぱり、そうか…。俺、死んだのか…」
その言葉を最後に電話は切れた。呆然とする彼の手には、ただ静まり返ったスマートフォンが残されていた。
やがて担当者が現れ、彼はその一部始終を話した。しかし、信じてもらえるはずがない。半ば呆れたような表情を浮かべた警察官がスマートフォンを受け取り、着信履歴を確認する。
「何もおかしいところはありませんよ。最後に通話した相手も警察署からの番号だけです。」
言葉を失った彼は、何も反論できなかった。ただ、確かに――彼自身の耳と体で感じたあの奇妙なやり取り。あの時の声は、どこに消えてしまったのか。
警察署を後にしてバイクにまたがった彼は、どうしても振り切れない寒気を感じた。駐車場で落ちていたあの電話が、何かを伝えたがっていたのか。それとも、死者がほんの一瞬、現世に戻る手段だったのか――彼には知る由もなかった。